竹内銃一郎のキノG語録

フレッシュ&ストレス  「~魂~」稽古ノート⑦2016.06.20

先週の土曜日は稽古前に衣装合わせがあり、それに想定外の時間がかかったので予定を変更して、劇の最初から途中止めずに、最後まで通してみる。本番までまだ一ヶ月弱あり、全体の流れを出演者個々が確認してくれればそれでよしと思っていたのだが、想定以上の面白さ。終了後、こまごまとした注意点を伝えたが、かなりの手ごたえに余は満足じゃった。

ずいぶん前の話だが。競馬雑誌で、日米トップクラスの調教師へのインタヴューが掲載してあって、その中の「競走馬の調教で、もっとも心がけているのはどういうところか」という質問に、アメリカの調教師(名前失念)は「(馬の)心身を常にフレッシュな状態に保つこと」だと答え、一方、今も現役で活躍中の藤沢和雄は、「常にストレスを与えること」だと答えていた。フレッシュは分かるが、ストレスを与えるとは? 一見すると、両者の考えは相反するように思えるがそうではなく、ストレスを与えるとは、稽古は八分程度に止めて、競走馬にもっと走りたいのにという欲求不満をつのらせ、本番でそのうっ憤を晴らさせようとの深謀遠慮であり、つまり、両者は、稽古の質量の案配こそが大事だと、同じことを別の言葉で語っていたのだ。

芝居の演出も同様である。怖いのは、稽古不足よりも稽古のやり過ぎだ。不足ならあとで補えばいいのだが、やり過ぎると、心身ともに疲れ果てた状態で本番を迎えることになり、そうなると取り返しがつかない。これが昔は分からなかった。しかし。八分にとどめるとは、言うは易し行うは難しで、八分がいったいどれだけのものか、八分と思っていたら、実は六分にも届かなかったらどうしようという不安がよぎり、正確に判断するのが難しいのだ。だから結果として、やり過ぎてしまう。やり過ぎは結局のところ、演出家の不安の裏返し、あるいは、自分はこれだけやった・やらせたのだという、自己の正当化、アリバイ作りなのだ。いまにしてそう思う。

ありがたいことに、歳もとり、昔のようには無理がきかない体になっており、やり過ぎようにもそれが出来なくなっている。それにも増して。今回の出演者諸兄は皆、同じことを何度も言わせない賢さがあるので、それがやり過ぎの歯止めにもなっている。フレッシュな心身をいかにキープするか。これがわたしに課せられた、本番までの最大の課題である。

ところで。競走馬と俳優はよく似ている、というのがわたしの自論だ。馬も俳優も、よしよしと言ってるだけでは、自分より下のモノだと思って、人間(演出家)を舐めるし、かと言って、やたらに鞭など振るえば、余計に言うことをきかなくなる。鞭は無知なる相手にしか機能しない。力でねじ伏せられるのは二流以下の馬・俳優だけだ。なけなしの知識を総動員して言葉を尽くすこと。言葉以外に演出家の武器はないのだ。

一覧