ごまかしの技術が一向に身に付かないこの不才! 「~魂~」稽古ノート⑧2016.06.28
昨日今日と稽古は二連休。出演者のプライベートな都合もあったが、芝居はすでにほぼ出来上がっており、となれば、前回書いたように、やり過ぎは禁物と、思い切って休むことにしたのだ。俳優やスタッフにああせいこうせいというだけが演出家の仕事ではない。こういう現場の状況判断も重要な仕事のひとつなのだ。
長らく机の上に置いたままになっていた、前田英樹の「小津安二郎の喜び」を読む。そこかしこで、なるほどと得心し、そして、ここまで進めてきたわたし(たち)の作業にOKを貰ったようで、勇気づけられる。例えば、次のような言葉に。
観客は、興行としての映画のなかに現実の騒擾を、その偽りの再現を求めてやまない。(中略)事件、騒ぎ、闘争を好むのは、人の常である。そういう傾向は、動物を食べる動物の生態に根ざすものだと言える。それらが見つからないところでは、人はそれらの模造品を熱心にこしらえて楽しむ。(中略)けれども、私たちにはまた、別の傾向がある。それは、楽しみではなく、喜びを求める。その喜びは、現実の騒擾のなかには決してない、潜在する<永遠の現在>のなかに、黙した命の静けさと共にある。小津がサイレント映画のなかについに見出した働きは、そのような静けさの直接の知覚にほかならなかった。
ついでにもうひとつ。
この映画(「晩春」)には、いい人間しか登場しない。が、それは善悪の尺度に照らして善い人間、という意味ではない。植物的な生の幸福に生き、深く微笑し合って暮らす人々だけが登場する。そういう意味だ。(中略)この暮らしには、最良の喜劇の味わいがあり、笠智衆の演技はそれを体現している。あえて言うなら、これは演技というものではあるまい。この俳優自身の奥深くに隠れて在った性質の、まったく自然な顕れなのだろう。(中略)「ごまかしの術」が一向に身に付かないこの不才こそ、小津にとっては得難い天分であったのだろう。
「草食系男子」という言葉は、否定的な文脈で使われることが専らだと思われるが、小津の映画同様、「~魂~」はまぎれもなく草食系の劇である。前田は、「闘争、奪取、支配、領有」を「動物的生存の形態」としているが、今回の劇は、これらの言葉とは対極にある。登場人物間に、内面はどうあれ、表立っての争い事はなく、誰も他を、奪取も支配も領有もしない。兄が自殺し、父は蒸発し、母は再婚し、家・家族を捨ててハワイに旅立つ等々の「事件」が描かれてはいても、残された人々は、かれら・それらを否定することなく肯定・受容する。まさに「深く微笑し合って暮らす人々だけが登場する」劇なのだ。先日提出された舞台美術のプランをもとに、この「なにも起こらない劇」を、どうやって<宇宙の潜在的な運動>にリンクし提示するのか。そこに演出の腕がかかっている。