竹内銃一郎のキノG語録

対岸より、セカオワを遠望す。  「~魂~」稽古ノート⑨2016.07.06

本番まであと10日。日曜月曜と通し稽古。相当に密度の濃い芝居になっている。いまの状態で本番を迎えられたら、わたしがこれまで演出を手掛けた100本ほどの芝居の中でも、5指に入るものになるはずだが。

稽古で直接俳優を褒めることなど滅多にないが、昨日は保を絶賛してしまった。軽やかで力強く、繊細にして平明。彼と初めて会ったのは20年ほど前、「坂の上の家」(作 松田正隆)のオーディションだった。それ以来、伊丹アイ・ホールで上演した「みず色の空、そら色の水」、さいたま芸術劇場で上演した「ひまわり」、DRY BONESの「心臓破り 手品師の恋」、「どらいのなつゆめ」に出演してもらった。ひとは誰でも、よほどの馬鹿でない限り、芝居に限らず、年数を重ねればそれなりに上手くなる。<それなりに>である。多くは、小手先の技術を弄するようになるのだ。しかし、保にはそれがない。生来の(?)かたくなな性格のゆえなのか、小津が愛した笠智衆同様、「ごまかしの技術が一向に身に付かない」のだろう。今回の霧島という不可解な男の役がはまっていること、そして、相手役を演じるA級Mの俳優諸君に十分な拮抗力と対応力があることが、今までにない今回の彼の快演を生んだのだろう。

二週間ほど前であったか。ニュースで、セカオワの総製作費5億円をかけた大イベントが報じられた。「5億円やで、5円を置くんちゃうで」(漫才のトミーズの古いネタ)。たった3日間の公演であったというから、最初から採算度外視だったのだろう。何故にそんな無謀を? 彼らの事情も意図も、そしてその音楽も、わたしはまったく知らないが、そこへと押し寄せる人々の気持ちは分かるような気がする。日々の暮らしから生じる、抱えきれないほどの憂さを晴らすには、それくらいの大仕掛けが必要なのかもしれない。

毎月送られてくるWOWOWの「7月の全番組解説」にざっと目を通すと。タイトル脇にその映画のジャンルが書いてあり、正確に数えたわけではないが、一番多いのが、「アクション・冒険」で二番目が「SF・ファンタジー」だ。それらに続くのが「サスペンス」「ドラマ」だが、サスペンスの要素を含まない映画はなく、ましてや、ドラマではない映画なぞありえないのだから、ま、いい加減な分類なのだが、このデータから見えてくるのは、製作者及び視聴者の<大がかりな、分かりやすい物語>志向で、映画とはそもそもそういうものだが、ここにきてその傾向にますます拍車がかかっていて(演劇も!)、前述のセカオワの大イベントも、この志向・傾向に沿ったものであろうことは容易に想像が出来る。

今回の「~魂~」の製作総予算はいかほどか。セカオワの200分の1くらい? 先に記したように、俳優諸君の芝居の出来は上々で、だからこれで、せめて劇場の舞台で5日ほど稽古が出来れば、未見の舞台装置に対応できるし、照明にも細かな注文が可能だし、と思わぬではないが、無い袖は振れない。「裸形の劇場」とは、太田省吾さんの著書のタイトルだが、5億円で着飾ったセカオワに対抗するには、自らの<持たざる>裸形を示すほかない。演劇とはそういうものであるはずだ。

前田英樹の小津評に即して言えば、わたし(たち)の今回の芝居を見て、観客諸兄が「喜び」を感じてくれたらと、切に思う。

 

 

 

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