保坂和志『未明の闘争』読了2014.04.18
『未明の闘争』読了。ふー。読み終えるのに二週間かかったわけだが、こんなに小説にずっぽりはまってしまったことがかってあったろうか?
不思議な二週間だった。小説自体が記憶が記憶をよび、呼び出された記憶が妄想や幻想をかきたて、夢と現実が交錯する、といった内容。しかし、いわゆる幻想小説かというとそうでもなく、犬や猫の生態、男女の性愛、いまも続く男同士の友情等々と、それだけを取り出せばフツーの小説でも繰り返し書かれてきたようなことが書かれている。
不思議だというのはそういうことではなく、この間、わたしの見るもの聴くものすべてがこの小説に関連づけられ、『未明の闘争』はまるでターミナル駅みたいだったのだ。
例えば、同じ日に買い、前にもここで若干触れたリョサとマルケスの対話を読んだあとに、この小説の中に、マルケスの『族長の秋』の話が出てきたり、残り三分の一くらいのところで、ものすごくかっこいいシーンが出てきて、それは
星川と不倫相手の若い女性が、酒も飲めるダンスも踊れるみたいな店に入り、しかし、女は星川の態度が気に入らないのか、サッカーのゲームに興じている外人グループのところに行ってキャッキャ遊んでいる、外人のひとりは女の背後から自分の体を押し付けている、それを見て星川は我慢がならず立ち上がろうとすると、隣にいた外人が彼を押しとどめ、これを聴けという、なんだ? と思ってると、マッド・ドッグス&イングリッシュメンの「ホンキー・トンク・ウィメン」が流れ、すると、店内にいるみんながいっせいにその曲にあわせて歌いだし、踊りだし
というくだりだが、まるで映画だ、この呼吸・センスはマキノ映画と同じだと思った、と。そしたら、少し読み進んでいったら、
悲しさを自覚するより先に悲しいときしかしない癖を体の方はしているように
という文章が出てきて、あ、これもマキノ雅弘と同じだと思った。
今週の火曜に、ネットで「900冊収納可」とあった本棚が届き、まだ段ボールから出せずにあった本を取り出すと、山根貞男と山田宏一さんのマキノ本2冊が出てきて、マキノが「演技とは要するに、重心をからだのどこに置いて、それをどう意識するのか、そして、感情の移り変わりを重心を移動させることによってどう表現するかだ」というようなことを書いていたのを思い出したのだった。
また、これもこの本と同じ日に購入して、前にも触れた前田英樹氏の「剣の法」の例えば、以下のような文章と
青岸の順勢に切り収まった刀を、そのままの角度で頭の左横に上げる。この時、刀は頭の左横で、左から右に向けて四十五度の角度で傾いています。傾いた刀の刃は上を向いている。この姿勢は、頭上に来る相手の切りを防ぐ形になっています。ここから、両手を逆勢に返し、今度は刀を右から左に四十五度傾いた形に転換して (P120)
この小説の次のような描写
それが注意を削いだのか、マウンテンバイクの青年が犬をよけたら芝生に乗り上げるとよちよち歩きの子どもにぶつかりそうになり、犬がワンワンワン! と激しく三回吠え、その声が終わるより先に青年はマウンテンバイクごと前にもんどり打って子どもは無事だ。青年とマウンテンバイクは一瞬宙に舞い、子どもはびっくりして泣き出す余裕もないが、青年の背中のリュックサックから居合わせた誰の目にもスローモーションで物が飛び散った。青年のとっさの行動はまわりの人たちの共感を呼び、飛び散ったリュックの内臓物をみんなが拾い集める。キラキラ光る物、ころころ転がる物、さわる前からぬめぬめした物、芋虫のようにもぞもぞ動く物、ある物はさわった途端に (P358)
このふたつ、厳密さ・詳細さの度が過ぎていることにおいて、ひどく似通っていないか。ヤナギブソンだったら間違いなく次のように言うだろう、「こんな話、誰が喜ぶねん!」と。
前者は全編この調子、後者は横浜の山下公園のある日の光景を描いたものかと思われるが、これがほぼ20頁延々と続き、そして
大きな犬が横たわるカートに向かった。女性が近づくと横たわる大きな犬はシッポを振った。これが共有できない。私はチャーちゃん(星川のかって飼っていた猫)の命日に毎月、納骨堂のある府中のお寺に行くと、犬が人と一緒にお墓参りに来ている。
と、行換えもないままスイッチして、ここからはチャーちゃんが亡くなる少し前の話になるのだ。
前回にも書いたが、まことにあきれた小説で、星川が不倫旅行に出かけると、もう一切奥さんの沙織さんは触れられることはなく、この不倫旅行の話になるきっかけになった、星川が嵐の夜を一緒に過ごした、アキちゃんも小池さんの奥さんの小林ひかるも、そして小林ひかるの不倫の話も、それからどうなったのかまったく触れられないまま、最後はどうなるのかと思っていると、<友達>の家の近所の野良猫ファミリーの滅亡の過程を描いて、終わるのである。
というか、登場人物たちの<物語>の決着はなにひとつつけられていないのだが、ただしかし、このように、最後になってふいに現れた野良猫たちの死によって終わるのだ。
あ、引用した小説、ところどころで、写し間違いじゃね? と思われるかもしれませんが、そうじゃなくて原本の方で、いらない主語なんかつけたしたりして、間違えているのです。
そういうことも含めて、つまり、厳密さとルーズであることの境界はどこにあるのか、夜のどこから朝のどこまでを未明というのか、とか、先の引用部分にも見られたような、時間・空間が安易といってもいいくらい軽々と乗り越えられるとか、生と死、あなたとわたし、犬や猫と人間、昨日と今日、等々の間の境界は、どこにあるのか、そういうことを認めない、そういうことは考えないようにしている、という多数派への宣言として、タイトルを『未明の闘争』としたのだろう。
以前にも書いたように、わたしはこの20年ほど、ほとんど小説など読んだことはなく、だから、最近の小説がどうなっているのかよく知らない。知らないままに書くのだが、これはとんでもない小説ではないか。
OMS戯曲賞が今年で(去年か?)20周年になるとかで、それを記念して雑誌が作られ、そこにわたしも寄稿しているということで、この雑誌とそして今年の受賞作を掲載した雑誌も送られてきた。
送られてきたときにざっと目を通し、それから二度ほどちゃんと読もうとしたが、なかなかその気になれない。
3本の戯曲が掲載されていて、選考委員諸兄は皆さん、今年は粒ぞろいと高い評価をされているのだが、それぞれの冒頭の台詞のやりとりを読んで、そう、見開き2頁のその次の頁を繰る気になれない。
それぞれ工夫をされているようだが、どれも台詞のベクトルが客席の方を向いていて、ということは、いまもこれからも営々と演劇はこれまでのように<演劇>としてあり続けると考えているのだろう。
たとえば中の1本にこんなのがあった。
おかしなロックバンドがいて、彼等は鮭をギターにし、古いラジオもギターにし、というのだが、これ、ほんとに面白いのか? 3分のコントのネタにしかならないのではないか?
こういう言い方も嫌味だが、たとえば、先に引用した前田氏や保坂氏の文章をそのまま声に出して読んだほうがずっと「演劇的」であるように、わたしには思える。
『未明の闘争』の最後は泣かせる。が、ここには書かない。気になるひとは最初の1頁を読んで、最後の頁を読んで下さい。へえー、とか、ふーんとか思うのじゃないか、と。
カフカの『審判』は、第一章を書いて次に最後の章を書いて、それから間の部分を書こうとして結局書ききれなかったもので、だから、未完の小説というのとは少し違うと、小説の主人公はいうのだが …