竹内銃一郎のキノG語録

興味津々! 「あの大鴉、さえも」の稽古を拝見しての記2016.08.28

25日。東京芸術劇場制作の「あの大鴉、さえも」稽古初日。スタッフ・キャストの顔合わせのあと稽古。本読みで終わるかと思いきや、立ち稽古が始まって驚く。と言っても、冒頭の部分を少しやって、それから、シーツほどの大きさの布にボール、あるいは、ゴム紐、網などの具体物を使って、3人で「見えないガラス」を運ぶ<手触り>の確認のための稽古を数パターン。演出の小野寺さんは褒め上手。いいね、面白いを連発しながら、しかし、注意点を明快に指摘。からだ・動きを台詞の説明(の道具)にしないでと、幾度も繰り返していた。小野寺さんの理屈は面白い。この芝居は、「押すなよ」「押してないじゃないか」というやりとりの執拗な繰り返しから始まるのだが、押されたからすぐに「押すなよ」と言わなくてもいいはずだし、あるいは、押されていなくても「押すなよ」と言えるはずだ、と。おっしゃる通りだ。この作品のことを「不条理」という言葉で括られるのは、ワタクシ的にはまったくもって心外だが、しかし、押してもいないのに、「押すなよ」と言われたら、言われた方にしてみれば、まさに「不条理」なわけで。

原作の、3人の男でという指定をなぜ女性3人で? と思っていたが、性別は不詳、年齢も不詳という感じでやるようだ。「大鴉」をフツーに読めば、男性の性的妄想が、この作品の核になっているのは明らかだ。しかし、それは言うなれば、作品を物語化するための方便に過ぎないのではないか。この作品を書こうと思ったそもそもの動機は、3人の男が、ふらふら無意味に動きまわっている、そのおかしさだけで劇を成立させたい、というものだった。つまり、もっともらしいテーマや物語から遠く離れて、劇を成立させたいと思っていたのだ。その当初の試みを貫徹できなかったのは、むろん、わたしの能力不足にほかならない。しかし、物語を成立するための必須アイテムであり、また、世界内存在としてつつがなく生きていくためには欠くべからざる、(登場人物の)性別や年齢を放擲してしまえば、おそらく、わたしが当初構想していた劇に近づけるのではないか。

M・デシャンの通称「大ガラス」を作品に取り込もうと思ったのは、物語化を可能にするための苦肉の策だった。パリのポンピドー・センターで、「デシャンの部屋」を見たのは、多分、この作品を発表した10数年後だ。P・センターの一画にあるその部屋に入ると、彼の幾つかの作品(オブジェ)が紐に吊られて宙に浮いていて、そのあまりの<軽さ>にわたしは感動し、「これでしょ」と思ったのだった。押しつけがましさがまるでない。わたしもこんな作品を作りたい、と。稽古の合間に、そんな話を小野寺さんにすると、驚いたことに、彼は一年余り、P・センターの近くに住んでいて、彼もこの部屋に入ったとき、同様の感想を持ったと言うのだ。

稽古を見ていたら、改めて「メンド臭い」戯曲だなと思った。物語化に傾いていると言っても、フツーの多くの劇とは明らかに違う。大半の俳優、とりわけ女優さんの「演じる歓び」は、情緒的かつ感動的な台詞を語ることに収斂されるはずだが、そんな台詞は、まあ、まったくと言っていいほどなく、大半は先に記したような、「押すなよ」「押してないじゃないか」の類だ。でも、ほんのちょっぴり稽古を見せてもらっただけだが、3人の女優さんの俳優としての資質の高さと、そして、小野寺さんの演出家としての優秀さは分かった。稽古を見ながら、わたしは、オリンピックの重量挙げの三宅宏実のことを思い出したり、ガラスを運ぶからだが、まるで類人猿みたいだとクスクス笑っていたが、そんな、劇とはまったく関係のない事柄を想起させる軽さ=自由さを、今回の作品は備えているように思われる。どーなるんだろ、本番。楽しみだなあ。

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