竹内銃一郎のキノG語録

こんな芝居がこの国にあったのだ! 「あの大鴉、さえも」を見る。2016.10.15

一週間ぶりに京都に帰る。PCのメールボックスを開けると、ザクザクとメールが届いている。びっくり。少なからずの人から「自作自演」面白かった、と。ほんとに多くの旧知のひとたちが来てくれた。「あたま山心中」の客席では、久しぶりに松尾(スズキ)くんとご対面。まるで竹内ウイークじゃないですかとからかわれる。9日に「自作自演」があり、12日には「大鴉」、13日には「あたま山心中」を観劇。以前にも書いたが両方とも満員の客席で、「自作自演」も8割強の入り。まことに感謝感激雨あられの一週間だった。しかし。なんと言っても驚いたのは「大鴉」。期待を遥かに上回る作品になっていた。これまでずいぶん多くのひとがわたしの戯曲を上演してくれ、幾度かその出来栄えに感動したが、今回ほどの刺激と驚きを感じた作品はなかった。いや、わたしの戯曲の上演云々にとどまらず、これまでわたしが見た芝居・ダンスの中でも、おそらく3本の指に入る傑作だったのではないか。

劇は、舞台下手前で、椅子に座って小林さんがひとりでチェスをするところから始まる。しばらくすると、藤田さんが「車輪」を持って登場し、それを舞台中央やや下手側にそれを置いて、勢いよく回して去る。この予想外の始まりに、わたしはドキドキし、そしてクスクスと笑ったのだが、一方で、些かぺダンティックに過ぎないか、観客はナンノコッチャイ? と、引いてしまうのではないかと思ったのだ。むろん、それは杞憂だった。この静かな始まりから、はいりが登場し、3人でガラスを運ぶ段になると …。次から次と、わたしなど想像もつかない秀逸なギャグ(と言っていいのかな?)が飛び出して、クスクス笑いが止まらなくなり。わたしが書いた「大鴉」は、要するに、3人の男があるのかないのか分からない大きなガラスを持って、あっちこっちとけんかをしながらうろつく話だが、その大筋を作品自体の構造として見せるのだ。時に戯曲の台詞を吐いたかと思えば、一転、ダンスが始まって、つまり、あっちとこっちをうろつく、という風に。演出の小野寺さんの頭の中はいったいドーなっているのか?!

もっとも驚いたのは、劇半ば過ぎ。戯曲で言えば、独身者1(小林さん)が、ガラスの届け先を確認するために親方に電話をかけに行き、残されたふたりのうちのひとり独身者3(はいり)が、勝手口に「三条」という名札がかかっているこの家が、目指す「山田さん」の家ではないかと言いだす場面。2と3は、それからアーでもないコーでもないと愚にもつかぬ言い争いを始めるのだが、その言い争いをはいりにひとりで喋らせるのだ。しかも、ただはいりのひとり芝居にするのではなく、はいりが2の台詞を言う時には、2を演じる藤田さんと入れ替わり、それを、ダンス風に(と言っていいのかな?)演じて見せるのだ。そのふたりの動きの美しさ、滑稽さと言ったら! さらになお、この時、舞台下手に小林さんが現れ、ぼんやりとした明かりのもとで、チェスをしている! 多くの芝居は、舞台上の焦点を一点に絞るのだが、ここでは焦点がふたつあって、それが同時に動いているのだ。ふたつの定点(中心)によって描かれる線・形は楕円を描く。それは、ひとつの定点しか持たない円が、面積の違いを除けばすべて同じ形状になるのに比べ、2点の位置・距離を移動させることによって、様々な形状となる。つまり、円は常に安定しているが、楕円は常に不安定で、だから運動的なのだ。

いったい誰が「大鴉」の演出家として小野寺さんを選んだのだろう? その慧眼はどれだけ賞賛しても足りないが、3人の出演者もまた同様で。三者三様の出自を持ちながら、それでいて(それだからこそ?)見事なアンサンブル。それぞれ取り換えがきかず、彼女たち以外のキャスティングはなかったのではないかと思われた。それはむろん、演出家の手腕があってのことではあろうけれど。可愛い!

観劇から数日経ったが、思い出すとまたあの時の興奮が甦る。作家冥利に尽きるとはこのことだ。ひとりでも多くの人に見てもらいたいと切に思う。

 

 

 

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