荒川洋治『忘れられる過去』読了。2014.06.10
どうも体調が芳しくない。風邪をひいて今日で一週間である。一昨日あたりから熱は下がったようだが、咳がとまらない。安眠が出来ない。それが悩みのたねだ。
そんなわけで、6月になったら書き出そうと思っていた戯曲、まだ白紙のままだ。今月中には第一稿を上げると、土橋くんに約束したのだったが、うーん。
荒川洋治『忘れられる過去』読了。
昔は、身近なところに、あの本が面白い、あの映画は見た方が …、と教えてくれる親切な知人が幾人かいたが、いまはもう誰も …、である。だから、本にまつわるエッセーを多く書いている荒川氏は、いまのわたしにとっては、親切な知人というより、ありがたい先生みたいな存在だ。
荒川氏は、しきりに「自分はあまり本を読んでいないので …」と書くが、それは謙遜というより、比べているひとのレベルが高すぎるのだ。そんなこと言われた、わたしなぞどうしたらいいのか …
本のタイトルになっている文章では、近松秋江の「黒髪」をとりあげている。作者の名前と作品名は知っていたが、もちろん、無学なわたしが読んでいようはずがない小説。
作家自身らしき男が、京都の祇園町の遊女に入れあげて、なんとかしたいと、執拗にアタックするのだが、女はなんのかのといって、男の要求には応じない。読者の目には明らかなこと、つまり、男は女にいいようにあしらわれている、ということが当人には分からないと、そういう話であるようだ。
以下は荒川氏の文章の終盤。
待って、待って、待ちくたびれる。そして「根負け」して、自分から出かける。この繰り返しについて、秋江はどう思っているのか。同じことを書いているという気持ちは、ないのではなかろうか。そのときそのときに、そう思ったことが、秋江の場合絶対のもので、少し前に同じようなことがあったとしても、また書いたとしても、そうした過去のできごとはすっかり忘れられた。(中略)これは一度書いたことをたいせつにする文学にはゆるされないことであり、なかなかできないことでもあり、文学としては新しいことである。
面白そうだ。今度読んでみよう。
井伊直行の「お母さんの恋人」というのも面白そうだし、スタインベックの「朝めし」にも興味をひかれる。
山間の夜明け前。子供をおぶった若い女と、綿つみにでかけるらしい若い男、そして、年をとった男。ふたりの男は、女が作ってくれた簡単な朝食を、ああ、うまいなあ、うまいなあと食べ、そして山へ仕事にでかける。
とても短い小説らしいが、これだけの説明でもその面白さが十分伝わってくる。
荒川氏は、40年前に出版社を立ち上げている。出版社といっても本作りのほとんどの工程を荒川氏ひとりでやるような、小さな小さな出版社で、出してる本のほとんどは詩集であるから、実利を目的としてやっているわけではないのは言うまでもない。
そんな事情もあって、要するに、ひとの本のことばかり考えているので、「自分の詩や文章がおろそかになってしまった」と書き(そんなことはないと思うが)、しかし、その文章に続けて以下のように書く。
でも表現は全体でするものであり、誰かがいいものを書く、ということがたいせつであり、わざわざ自分が書くことはないのだ。自分が書く時期はおそらく、自分が思う以上に先の話である。
荒川氏の文章には、体をふたつに折り曲げて、地面を歩いているアリを一匹一匹数え上げているような優しい文章と、対象と正対し直視し一歩もひかない気迫にあふれた文章とふたつがあって面白いが、以下はこの本の中でもっとも調子の高い、感動を覚えずにはいられない文章。
文学は実学である
この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。
だがこの目に見える現実だけが現実であると思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では役に立たないが」という弱気な前置きで話す。文学像がすっかり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれてないのに)文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説で読者をけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない、語ろうとしない。
文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものである。そう考えるべきだ。 (中略 幾人かの作家と作品名を列挙し)
こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。
それくらい激しい力が文学にはある。(中略)文学を「虚」学とみるところに、大きなあやまりがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われてきたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。
世の中にはいろんなひとがいるから、とか、ひとはそれぞれでいいんじゃないの、とか、自分の考えをひとに押し付けるのはよくないよ、等々、近頃とみにこんな言葉を耳にするが、こんな言葉は、自分の意見を持たないことを覆い隠す、まやかしにすぎない。互いにことばを尽くしあう面倒を回避しているだけだ。
それらの醜い<いいわけ>に比べて、上記の荒川氏の断言の気持ちよさはどうだ。
前にも一度触れたことがあるのだが。わたしの若い知人の書いた戯曲が、東京で上演されることになったのだが、その知人の話を聞いてるうちに、わがことのように腹立たしくなった。
とにかく、制作サイド以下、やる気がないとしか思えない。演出家氏、何点か直してほしいと要求をしただけで、その要求が曖昧模糊としていて、印象から言えば、頭の悪い学生レベル。おまけに、どれほど忙しいのか知らないが、その連絡もひとまかせ。明らかになめてる。わたしの知人のみならず、演劇を、表現を、そして、自分自身を。
これ以上詳しく書くと当人に迷惑がかかりそうだから、ぼんやりと書くしかないが、先の荒川氏の文章に書かれてあったことと同じで、この国の演劇はすっかり壊れてしまっているのに、多分その事実に気づいてないのだろう、「ハ、ハ、のんきだねェ」という、危機感ゼロの仕事ぶりで、この作家の処女作だから出来るだけのことはしてやろうとか、この作品で世の中の演劇ファンの度肝を抜いてやろうとか、そんな優しさも野心も微塵も感じられない。誰だ、この程度輩に演出をまかせようと決めたのは。
二週間ぶりに散歩をしたら、近くの川のかわべりに、色とりどりの花が咲いていた。いつの間に?!
しかし。花がきれいだと思うのは、からだが弱ってる証拠だ。早く元気にならねば。