「ハドソン川の奇跡」と「シン・ゴジラ」を比較する。2016.11.06
「ハドソン川の奇跡」と「シン・ゴジラ」はともに、ひとが人生の中で滅多に遭遇しない<大事件>を扱っている。そして、そのような事態、即ち、破滅に至るかもしれない危機を、ひとはどのように回避するのかを問うている、という点でも共通項を持っている。しかし、両者には決定的とも言える大きな違いがある。それは、簡単に言ってしまえば、前者の作り手の関心が人間に向けられているのに対して、後者はメカニックなものを関心の対象にしているという点だ。メカニックなものとは、PCや戦車や戦闘機、薬品等のみを指すのではなく、執拗に繰り返される法律に関する議論も含まれる。その昔、東京乾電池の若手公演用に、わたしの「恋愛日記」を岩松さんに改訂してもらったことがあり、その中に「アニメだ、やっぱりアニメがいい」という映画監督の台詞があった。俳優が自分の指示通りに出来ないのでそんなことを口走るのだが、「シン・ゴジラ」の総監督である庵野秀明も、「人間的」と称される問題・事柄を疎ましいと思うひとなのだろう。彼の他作品がどんなものかは知らないが、この映画に限れば、通常の物語にはつきものの、恋愛や家族に関する事柄が、石原さとみ演じる米国大統領特使の祖母が日本人でという設定を除けば、きれいさっぱり切り捨てられている。むろん、だからいいとか悪いとか、そういう話ではない。ただ、この事実が、わたしを「寒々とした心持ち」にしたのは確かだ。
「ハドソン川の奇跡」の上映時間は約100分で、「シン・ゴジラ」のそれは約120分と、両者には20分の差があるのだが、その実際の時間の違い以上に、前者は短く、後者は長く感じられた。これは単にわたしの好みの問題ではなく、明らかに、物語の構成の方法の巧拙が反映している。前者は、「事故後(数か月後?)」の主人公の「苦悩する現在」から語り起こされ、次に事故の模様が詳細に示され、最後に、パイロットである主人公の、マスコミ等から「奇跡」と称賛された「川への着水」が、本当に正しい選択だったのかを検証する公聴会の場面になり、そこで彼の判断・選択の正しさが明らかにされ、主人公は苦悩から解放されて終わる。つまり、時間が前後する構成になっている。一方、後者はほぼ時系列に従って進行していく。最初に羽田沖で不可解な出来事が発生し、次に、巨大ななめくじが東京を這いまわり、政府がその対応に苦慮している間に、ナメクジは瞬く間に巨大化し「ゴジラ」になる。自衛隊が出動するがまったく歯が立たず、支援を要請した米軍の苛烈な攻撃でゴジラは一時お休みになるが、すぐさま復活。米国主導で原爆の使用が検討されるが、日本の研究者の「ゴジラ凍結化」が功を奏して、とりあえずは一件落着というわけだが、最初と終盤、つまり、自衛隊出動を決定するまでと、原爆使用をめぐるあたりにモタモタ感があり、それがわたしに長いと感じさせたのだった。ともに簡単に結論を出せるような問題でないことは明らかだが、例えば、ゴジラの進化を順を追わずに時系列を組み替えれば、もっとすっきりまとめ得たはずなのだ。繰り返しになるが、「ハドソン川の奇跡」は、最初に主人公の苦悩の現在が語られ、最後はその苦悩からの解放が描かれ、間にこの映画の見せ場である事故の実際が置かれている。いうなれば、序破急という古典的な構成になっていて、これがコンパクトにまとまっているという印象につながっている。こういうのをプロの仕事という。