「ハドソン川の奇跡」と「シン・ゴジラ」を比較する②2016.11.07
劇場で購入した「ハドソン川の奇跡」のパンフには、「イーストウッド監督作フィルモグラフィ」が掲載されている。これまで撮った作品は、第一作「恐怖のメロディ」(1971年)から今回の作品まで数えて37本。わたしはそのうち、劇場未公開のドキュメンタリー「ピアノ・ブルース」(2003年)を除く、35本を見ている(ご苦労さんデス)。因みに、大島渚の監督作品も、全26作のうち、遺作となった「御法度」を除く25本を見ている。ホントにホントにご苦労さん。ま、暇の産物ですが。
もうひとり、全作品をほぼ網羅している映画作家がいて、それはわが師大和屋(竺)さん。監督作品は、「裏切りの季節」「荒野のダッチワイフ」「毛の生えた拳銃」「愛欲の罠」と、劇場公開作にかぎれば4本しかないから当然として、シナリオのみ担当の約40本のうち、デヴュー間もない頃に書かれたピンク映画数本を除き、すべてを見ている(エライぞ、タケウチ!)。見逃した数本の中の一本「寝強犯」は、『大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ』に付された、高橋洋執筆のストーリー紹介によると、「野を駆ける馬がなめし皮に化ける、その工程を追った度肝を抜くオープニングから、舞台は靴屋へ。この靴屋がギャングたちの宝石争奪戦に巻き込まれていく訳だが …」という風に始まり、そして「深夜の路上に馬蹄の音が響き渡る。路上に差す光。一頭の白馬が駆け抜けていった。」というのがラストショットらしい。ああ、ファーストシーン・ラストシーンを想像するだけで、体中の血が逆流しそうなほど興奮してしまう。なぜ見逃してしまったのか。悔しい! それにしても、なんだこのタイトルは?!「寝強犯」って。 いったい頭のどこをどう押せばこんなキレキレの言葉が出て来るのだろう?
本題に戻そう。前述のパンフにはイーストウッドへのインタヴューも掲載されていて、「あなたの映画の主人公は、悲しみや痛みを抱えていることが多いですが、それはなぜですか?」という質問に、彼は次のように答えている。『悲しみを抱えているキャラクターは、謎めいて映るからかもしれない。映画でも舞台劇でも、悲しみを抱えているキャラクターが登場すると、観客は「過去にどんなことがあったんだろう?」と不思議に思う。そして、彼らに注目することになる。(以下略)』。登場する主要な人物(たち)が、悲しみや痛みを抱えているのは、別にイーストウッドの映画に限ったことではなく、わたしの知る限り、例外として挙げられるのは「無責任男シリーズ」の植木等演じる主人公と、そして、「シン・ゴジラ」のゴジラくらいだ。昔のゴジラやキングコングなども、ある種の悲しみを漂わせていたのではなかったか。それはそれとして。「ハドソン川の奇跡」で思わず落涙してしまった場面が三度あり、その中のひとつは、もしかしたら多くの観客が見逃してしまったかもしれないものだ。それは、
飛行機が無事着水し、そして、あちこちから機内の乗客救助のための船がやって来る。寒さに震えている乗客たちに救助員たちは毛布を手渡す。この時だ。ひとりの乗客が体に巻いた毛布が背中でまくれ上がっているのを見て、救助員がさりげなくそれを直してやるのだ。その実に繊細な心遣いにわたしは感動し、泣いてしまったのだった。そして、そんな、なんでもないと言えばなんでもない仕種を、カメラマンとそしてイーストウッドが見逃さなかったことにも。
イーストウッドの関心は人間に向けられている。それも、「悲しみや痛みを抱えた」というより、どうしようもない孤立感を抱えた人間に。わたしの「イーストウッド監督作品ベスト5」を公開年度順に挙げると、「ブロンコ・ビリー」「センチメンタルアドベンチャー」「ペイルライダー」「許されざる者」「ミスティック・リバー」になるが、「ハドソン川の奇跡」もこれらに劣らない傑作だ。というか、「アウトロー」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」等々も前記の作品と甲乙つけ難いのだから、ベスト5という枠組み自体、イーストウッドに関してはあまり意味がない。そして、当然のことながら、これらの作品の主人公は前述したように、例外なく「どうしようもない孤立感」を抱えて、更には、「許されざる者」でジーン・ハックマンが演じた保安官のような悪役担当にさえ、同様の「孤立感」をまとわせ、「過去にどんなことがあったんだろう?」とわれわれの思い入れの対象としている。もちろん、「シン・ゴジラ」の登場人物たちだって、ゴジラはともかく、人間側の(?)主人公と言っていい、長谷川博己演じる内閣官房副長官は、周囲の無理解に包まれて深い孤立感を抱えているはずだ。しかし、それが切実なものとしてこちらに(少なくともわたしには)伝わってこないのは、「ハドソン川の奇跡」の「救助員=人間」のさりげない振舞いをきっちり捉える<繊細な眼差し>が、「シン・ゴジラ」には欠けているからだ。