「こちらあみ子」応答せよ。応答せよ。2014.08.04
『境界の現象学』(河野哲也著)に挟み込まれていた筑摩書房新刊案内に載っていた『こちらあみ子』。
作者の今村夏子さんはこの小説で、太宰治賞と三島賞を貰ったらしい。
ネットで検索すると、太宰治賞の選者のひとりである荒川洋治氏が絶賛、とある。
これは読んでみねばと、amazonで注文。以前、このブログで本屋さんがどんどん消えていくことを嘆いたわたしが、アマゾンである。こんなことしてるから本屋が …と思いつつ。でも。すみません、近くに本屋がないんですよ。
今日届いて、早速読む。
ネット上でも絶賛の嵐で、簡単な紹介の文章を読むと、タイトルにもなっている「あみ子」という女性がちょっと変わってて、それが魅力的で、最後は泣ける、とある。
うーん。そうか?
一度読んで、そんなに長いものではないので、もう一度、ざざっと読むと、とても技巧的に書かれた小説であることが分かった。少し変わったところのある少女は前歯が三本なくて、どうしてそうなってしまったのか、その謎を、彼女がどんな環境下に置かれていたのかと重ねながら、解き明かしていく。
でも。わたしは、もっと変な、あまり似たものがない小説ではないかと勝手に想像していたので、なんとなく肩透かしを食らったような気分。これはフツーの小説好きが好む、巧く書かれたフツーの小説ではないか?
「あっ」と思った箇所が一箇所。それは …
「あみ子のは地団太じゃ」と、いつだったか言われたことがあった。小さな町に溢れるすべての音がまるで幻のように遠くで聞こえる夕方だった。見上げた屋根の上には高いところから降りてきた雲があった。そこに射しこむ昼間の太陽の残りが、平たい雲を金色に輝かせてみせていた。そのとき袖なしの白いワンピースを着ていたあみ子は、赤い実をとろうとジャンプした。
ま、これだけ抜いてもなんのことだか分からないと思いますが。
「moon guitar」を書くとき、これをなんとか使いたいと思った本のワンシーンがあった。
それは『人はなぜ探偵になるのか』(朝日文庫)の中にあって、著者は靏 井通眞というひとで、「損害保険調査員の事件簿」という副題がついていて、これは著者が実際に関わった事件をもとにして書かれたもの。
使いたいと思ったのは、「第八章 孤独な探偵はUFOを目撃する」であった。
探偵は、仕事を終えて家に帰るために電車に乗っている。夕方だが、車内はまばら。
私は無性に人なつかしい気分になって、車両に乗りあわせた一人一人に話しかけたくなっていた。だが、誰も申しあわせたように口をつぐみ、私の無遠慮な視線にさえも気づかないようだった。(中略)
私はまた妙な気持ちに誘われた。作業服の二人が上半身をかがめ、首をねじまげて背後の窓の外をうかがっている。母親連れの女子高生は身を乗り出してまっすぐ前の窓に見とれている。 私は何かを予感しながら、三人が熱心に凝視している方角に視線を向けた。淡いオレンジ色の半透明の光をまきこぼしながら …‥(中略)
それがUFOらしいと気づいたときから、私はこのことは誰にもしゃべるまいと決意していた。誰にしゃべっても誰も信じない。(中略)UFOを目撃するとは孤独なことだったのだ。いや、そうでないかも知れない。孤独な人間が誰とも共有しえない経験、したがって誰からも制約を受けない世界にひたりこもうとしてUFOにでくわすのだとも考えられよう。
学習障害かなにかなのか、とにかく誰からもまともに相手にされない小学生のあみ子が、大好きな「のり君」とふたりで下校する道すがら、昨日の自分の誕生日に父からもらったチョコレートでコーティングされたクッキーの、チョコレートをなめてしまってクッキーだけになったモノをのり君に「食べんさい」と言って渡し、のり君は、「おいしいじゃろ」と聞くあみ子に「普通じゃ、しけっとる」と言いながら、一箱全部食べて、食べ終えるとからっぽの箱をあみ子に投げ返し、手を振って別れたあと、あみ子はスキップして家まで帰る。そのスキップを以前兄から、「あみ子の(スキップ)は地団太じゃ」と言われたことがあったのだ。
この時味わったあみ子の束の間の幸福感と、UFOを目撃して自らの孤独を実感した探偵が、わたしには一枚のコインの裏表のような気がして、「あっ」と思ったのだろう。
佐世保の少女が気になる。「ひとを解剖したい」というのは、どういうことなのだろう?
先に記した『境界の現象学』の第1部は「変身」というタイトルで、「ファッションと産まれることの現象学」「見つめられることの現象学」「痛むこと、癒されること」「食べられること、食べること」という章によって構成されている。
まだ途中までしか読んでいないが、とても示唆的な本だ。
こんなことが書いてある。
対象が私を見つめていると感じるためには、その対象を運動感覚的に捉えていなければならない。その対象が死物・無機物であってもである。身体のない精神にはこの運動的な対象の把握ができない。