近大舞台芸術専攻卒業公演パンフ原稿2014.08.07
鴻上さんの芝居を初めて見たのは多分、80年代半ば。知り合いから、「是非見てほしい」という彼からの伝言を聞き、早稲田の大隈講堂脇に設置されたテントでの公演を見に行った。予想していた以上に面白かったので、その旨を記した手紙を彼宛てに書き、そして、丁寧な返信を受け取った。再度のやりとりがあったかも知れない。もう30年近く前の、この公演に参加している諸君が生まれるはるか昔のこと。懐かしい。
久しぶりに鴻上さんの戯曲を読む。「エゴサーチ」。劇が始まって間もなく提示される「謎」が、めまぐるしい場面転換と時制の往還が自在に繰り返される中で、劇の進行とともに解き明かされていく。これは、デヴュー以来一貫して採用してきた鴻上スタイルだ。
戯曲で指定された場数は32、暗転(照明F・O)は7回。実際の舞台がどうなるのか知る由もないが、この数字を単純に受け止めれば、シーン変りの大半は暗転せずに、装置の転換なしになされることになる。この方法をどのように理解すればよいのか。
わたしは、ひとは常に時間・空間に投げ出されており、時や場所が変わればそれに応じてひとは変わると思っており、その<変わり目>こそが劇的なるものの核だと思っているが、鴻上戯曲の登場人物たちは、どれほどの時間が経過しどんな空間にその身を置こうと、まったく変わらない。いやそれどころか、登場人物たちに付された名前や職業は、仮の名、仮の職業で、一色が田中になろうと編集者が学校の先生であろうと、物語の進行にはなんの支障もなく、理解の妨げにもならないように思える。これはどういうことか。
結論を急ごう。わたしがわたしであることの困難と危うさ、あるいは、わたしはどこかの誰かと代替可能な存在に過ぎないのではないか、という彼の世界認識が、このような方法をとらせているのだ。一言にまとめれば、身体(性)の喪失ということになろうか。
何ゆえに諸君が卒業公演の演目としてこの戯曲を選んだのか。これまたわたしの知るところではなく、あるいは単純素朴に、先に記したあまりに切なく苦すぎる世界認識を包む、用意周到な甘い糖衣に惹かれたのかも知れないが、しかし、ネット社会に根こそぎもっていかれそうな過酷な現在を生きる諸君の意識下の声が、「これを!」と呼びかけたとすれば、「嗚呼 …」とわたしは嘆息せずにいられない。