時間とともに流れるもの、流れえぬもの②2017.03.12
新しい住まいに移って一週間が過ぎた。部屋の中はほぼほぼ片づいたが、なかなか落ち着いた気分になれない。14日に浦和からの荷物が奥さんとともに届くことになっており、そのためのスペースを空けているからだ、なにか宙ぶらりんの感じで。
住めば都と言うけれど、そうなるためには、当然のことながらそれなりの時間が必要だ。知らない場所・街は実寸よりも大きく広い。ついこの間も。散髪したいと思って床屋を探したのだが、女性向きのいわゆるヘア・サロンはあっても、おっさん向きの<床屋>がまったく見つからない。この街にはハゲかカツラのおっさんしかいないのかと怒りのアタマを頂きながら、二日間延べ4時間ほど、あちこち探してようやく見つけたのだが、なんとそこは三十三間堂に行く途中にあり、住まいから徒歩10分ほど、何度かその前を通ったことがあったのだ。呆れたことに、ひとつ見つかったらあっちでこっちで、徒歩10分圏内に5軒の床屋を続々発見。いずれもその前を通ったことがあり、ひとつはつい目と鼻の先、歩いて3分ほどのところにあったのだ。ということは? それを必要としていない時にはその存在に気づかず、必要とした時には、そこは既知の場所として視界から外していたのだろう。
去年の11月くらいから転居先を探し始め、今年の一月半ばに現在の住まいに決定、それから約二か月間、引越しのためにほとんどの時間をさいた。もう二度とごめんだ、こんなこと。おそらくこのことも原因のひとつであろう、ここに来てライフスタイルが急激に変わってしまった。学生時代からだからほぼ半世紀近く(!!)、深夜の1時2時頃に寝て朝は8時~10時くらいに起きる、という生活を続けてきたのだが、それが。今年に入って、夜12時前に眠くなり、朝は5時前後に目が覚めるようになってしまったのだ。もしかして、これは明らかに老化の顕れではなかろうか。
前回にも書いたが、この一ヶ月ほどの間に、すっかり忘れてしまっていたものが次々と目の前に現れて。公演のポスターもそのひとつ。「秘法」の一時期、ポスターを壁新聞風にしていたことがあり、もちろん、それを忘れていたわけではないが、ほぼ30年ぶりにそれらと再会し、ああ、こういうものだったのかと、その出来栄えに感心する。わたしは「劇に祈りを」と題したエッセーを連載していただけで、内容については若い劇団員たちに任せていたはずだ。それにしても。執筆者の顔ぶれの多彩なこと。山崎(哲)さんや有薗、(渡辺)えりこさん、(片桐)はいりさん等々の演劇関係者はともかく、あの楳図かずおさん、あの山田宏一さん、あの戸川京子さんなんて、誰がどうやってコンタクトをとったのか? 仕事部屋兼寝室となっている部屋の、いまこうしてブログを書いているわたしの目の前の壁に貼ってある3枚のポスターを目にしていると、忘れっぽいのが取り柄のわたしでも、さすがに懐かしでいっぱいになる。うん? これも老化現象かぁ?