イチロー只今43歳、まだまだひよこです。2017.04.21
四月も半ばを過ぎて、鴨川沿いの桜も大方が散ってしまった。しかし。よく言われているように、桜はパッと咲いてパッと散るわけではない。蕾から花が咲き、待ち遠しいほどの時間をかけてやっと満開、でも咲いたそばから散るわけではなく、見頃は幾日も続き、更には、一週間ほど前がそういう状態だったが、風に吹かれて花びらが舞う様は実にきれいなもので、また、花が散ったあとの葉桜もなかなか。手を変え品を変え「見せ場」を提供してくれる。一本の木に咲く花は同時に散るわけではなく、鴨川沿いに長く続く桜並木も一斉に咲き・散るわけではもちろんない。若い頃はパッと咲いてパッと散るような、潔い生き方を望んでいたのだが、前述したように、桜の見頃は結構長く、そして、一年後にはまた新芽をのぞかせ、花を咲かせるのである。実際の桜は、潔いというよりかなりド渋太いのだ。
久しぶりに梅田に出て、卒業生の小山さん、重松さん(ともに旧姓)と食事する。ふたりとももうじき一歳になる子ども連れ。彼女たちと会うのは2年ぶりで、御年30になるらしいから、卒業して8、9年経っているはずだが、それほどの時間が経過したとはまったく思えず、新入生として出会った頃と変わぬ印象、と言うのはいくらなんでもだが、あの当時と変わらない初々しさを感じたのは、おそらく、「一年生ママさん」だからだろう。と言って、母親として危なっかしいところがあるわけではなく、子育ての実際を知らないわたしの目には、行為ひとつひとつの真意が分からぬ子ども相手に、実に適切な対応をしているように映り、それは、一年生後期の授業発表公演「ワーニャ叔父ちゃん」で、大学に入るまで演劇に触れたことなどほとんどなかったことを微塵も感じさせなかった彼女たちの演技と同質の、実に堂々としたもの、天晴天晴。
大阪からJRで京都に戻り駅を出ると改めて、京都は不思議な街だと思う。都会なのに、周りは山で囲まれていて、あちこちに立派な寺社の屋根が見える。
以前にも書いたか。さほどの関心があるわけではないのだが、暇にまかせて三日に一度くらいのペースであちこちの寺社へ行く。有名な寺社の多くは、天皇家、徳川家、豊臣家等々の強大な権力者たちに由来するもので、無意味とも思えるその敷地の広さは、いうまでもなく、自らの力を誇示するものだろう、それがわたしには癪に障る。市井の貧しき者たちに分け与えたらどうかと思うのだ。しかし、数百年あるいはそれ以上の長い年月を経ながら、今もなお昔の姿を止め得ているのは、市民に解放しなかったからだ。そんなことをしたら、金の亡者どもがおいしいところをしゃぶり尽くして、今頃はあの寺あの神社、すべて見る影もないものになっているだろう。
先日、いまの住まいから徒歩15分のところにある三十三間堂に行き、今までにない感動を覚える。本堂には金色の千手観音がなんと千と一体も並んでいるのだ。7、8百年という長い年月を潜り抜けてきたそのお顔ひとつひとつを見比べているうちに、なんだか気が遠くなってまるで夢見心地に …。