竹内銃一郎のキノG語録

タニマラ=さびしい風  「チザム」と「ウエスタン」2017.05.22

「チザム」の主人公、ジョン・ウェインが演じるジョン・チザムは、19世紀に実在したアメリカの牧場王である。まず、彼がいかにして現在の地位を築いたかを紙芝居風に紹介するくだりがあり、それが終わると一転、小高い丘の上、馬に乗ったジョン・ウェインをロングで捉えた、絵かと見紛う静止画。それがゆっくり動き出すと、いよいよ映画は始まるのだが、背中がまっすぐ伸びて微動だにしない馬上のジョン・ウェインのなんとカッコいいことか。物語は、ビリー・ザ・キッド、パット・ギャレットといった西部劇のスターも登場、善人はどこを切り取っても善人で、悪人は頭の先から足の爪先まで、同情する余地のない悪一色。まことに分かりやすいのだが、しかし、常に最良と最悪、先行きはどっちに転ぶかと観客をヤキモキさせるよう、実に巧妙に仕立てられている。最後にしつらえられた善悪両者の闘いで、善玉チーム危うしとなったところで、われらがジョン・ウェインは思いもよらぬ一発逆転の秘策を繰り出す。この映画の最大の見せ場だが、なにがいったいどうなるのかは、伏せておく方がよかろう。監督は、以前このブログで取り上げた「シェナンドー河」と同じ、アンドリュー・V・マクラグレン。

格別の西部劇映画ファンではないのだが、このところ連日のようにその種の映画を見ている。いつものように早起きしてしまった日曜の朝見たのは、セルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」。見るのは二度目、20年ぶりくらいだろうか。前述のマクラグレンの手になる西部劇はどれも(といっても見たのは数本だが)、物語がどうこう、登場人物のキャラクターがどうこうというより、ロングで捉えられた、どこまでも続く大地の緑と、かぎりなく広がる空の青さの美しさが、長く記憶に残る映画だが、S・レオーネといえば「超接写」。毛むくじゃらで脂ぎった男どもの顔に、これ以上の接近は無理ですというところまでカメラを近づけて撮る、それを連発する。大地は赤茶けて草もなく、空の青さには常に不安の影が写し込まれている。マクラグレンの牧場なら、無給でいいから働かせてもらいたいと思うが、「ウエスタン」に登場する安宿は、尋常ならざる汚さ・暗さで、あんなところに放り込まれたら、わたしは一分も経たないうちに恐怖のあまり失神してしまうだろう。

S・レオーネを筆頭とする「マカロニウエスタン」は、イタリア製の西部劇を指し、アメリカが営々と作り続けてきた「伝統的な西部劇」のアンチとして位置づけられている。先に記したことからも分かるように、両者の違いは決定的で、その典型例が暴力の描写・表現だろう。世界中で暴力の嵐が吹き荒れた時代の趨勢は、明らかに反体制派=マカロニW有利に働いたが、S・レオーネがアメリカに渡って撮った「ウエスタン」が制作されたのは1968年で、「チザム」が作られたのはその2年後。「守旧派」は簡単に城を明け渡したわけではない。「チザム」は最初と同じ静止画で終わる。もちろん、馬上のジョン・ウェインは微動だにしない。<マカロニの暴力>くらい「屁の河童」だ、と言わんばかりに。

今回のタイトルは、「チザム」の中でジョン・ウェインが語る台詞だが、皮肉なことに(?)、さびしい風がことさらに感じられるのは「ウェスタン」の方である。S・レオーネの映画では、<暴力>の向こう側でいつも「タニマラ」が吹いているのだ。

 

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