タニマラ、再び。 2017.05.23
タニマラは、レオーネが描く暴力の向こう側でしか吹かないわけではない。「チザム」の始まりと終わりに置かれた、「微動だにしない馬上のJ・W」のロングショットにも、タニマラは静かに吹いている。チザムが小高い丘の上に立つのはおそらく、様々な苦難と障害を乗り越えて得た大牧場と、そこで草を食む数千頭に及ぶらしい牛馬たちを一望におさめるためだ。「ウエスタン」の地を這い、泥水をすすって生きているような登場人物群と違って、チザムは功成り名を遂げた男だが、だからと言って、優越感や達成感に浸っているわけではない。得たものは確かに大きいが、失ったものもそれと同じくらい大きかったことを、丘の上からの一望によって確認しているのだ。タニマラは、彼の達成感と喪失感の間を吹き抜けている。セザンヌが描くサント・ヴィクトワール山にもタニマラが …などと書けば、どこでも吹くのかい? と突っ込まれそうだが。
セザンヌが世間=批評家たちから、長く心無い批判と嘲笑の的とされたことは、多くのひとの知るところである(後年はほとんど無視されて、それさえもなくなった)。外出すると、近所の子どもたちからよく石をぶつけられたという話も伝えられている。そういう輩は、おそらく実生活でタニマラを感じたことがないのだろう。だからセザンヌ(の絵)を平気で嘲笑出来るのだ。
近親者に発達障害の子どもが、わたしが知っている限り、ふたりいる。子どもといってもひとりはもう「いい大人」で、もうひとりは今年から高校生だ。近親といっても、前者とはもう20年以上会っていないし、姪の息子である後者とは年に一度のお盆に会うくらいだから、実は<遠いひと>なのだが。今朝録画で見た「NHK特集 発達障害」で、わたしたちにはなんでもない日常的な風景が、障碍者の目や耳には、こんな風に見えこんな風に聞こえているのだと、具体的に紹介していた。まさかここまで?! とわたしは驚き、これじゃ怖くて自分の部屋から出るの無理だわと思い、そして改めて、そう思う自分は、紛れもなくフツーのひと=多数派に属しているのだ、と思った。わたしはこれまで繰り返し「多数派がふるう暴力」について書いてきた。それが無意識の産物であるがゆえにいっそう罪深いことも。だから、と続けるのはなんだか言い訳がましいが、結局わたしはせいぜいが、多数派の中で安住する少々変わった少数派に過ぎないのだ。昨日、久しぶりに見た芝居、残念ながらタニマラが吹く気配さえなかった、「死にたい」若者たちのお話なのに。ふう。
最後になったが、「タニマラ」はコマンチ語である。チザムはコマンチの酋長とかたい友情で結ばれていたのだが、彼ら先住民たちが政府によって居留地に追いやられることを阻止出来なかった、彼らのためになにも出来なかった、その悔恨が彼の心の中に隙間を作り、それもまた、タニマラが吹き抜ける原因になっているはずだ。