Oh Born ! 「キートン将軍」からのいただきもの(改題)2017.08.15
13日、帰省。田舎に帰るのは一年ぶりだ。JRの最寄り駅から家まで徒歩10分。子供のころは、広い道路の両脇は各種のお店で埋まっていたが、いまはもう数えるほどしかない。駅が無人になったのは何年前だったか。着いたのは夜の七時頃だったが、すれ違う人はほぼ皆無。寂しい。
お盆は亡くなった人々を供養するための行事(?)だが、特別な理由・事情がない限り会わなくなった肉親と、年に一度顔を合わせる貴重な場でもある。今年は姪の子供たちとすれ違いになってしまった。年を重ねてもあまり変わり映えがしない姉たち、義兄たち、それもまた元気な証で、まことに結構なことだが、小さな子供たちはたった一年で驚くほどに成長する、それを確認することが、お盆に田舎に帰る大きな楽しみのひとつになっていたのだが。残念。いや、それにしても。姉たち、義兄たちの元気なことに驚く。14日で御年83となった長姉の旦那さん、20年ほど前から毎日かなりの距離・時間を歩いていること、埼玉で開かれているウォーキングの大会に出場していることも知っていた。しかし、その大会で一日30キロを連続三日間、つまり、90キロ強を歩いていることを今回初めて知って、腰が抜けそうなほどに驚く。長姉はもう40年ほどフォークダンスの指導に関わっていて、わたしより5歳年長の次姉とその旦那さんも、いわゆる社交ダンスを30年ほど続けていて、いまは個人レッスンを受けるため、週に一度、名古屋まで出かけているとか。みんなドーカシテルゼ。
京都の家に帰って、録画しておいた「キートン将軍」を見る。サイレントであるから当然台詞はなく、音楽や効果音等、一切の音がない。しかし、多くのサイレント映画は、字幕で台詞が語られるのだが、この映画ではそれさえほとんどなく、字幕で語られるのは、物語(の進行)を観客に理解させるための最低限の情報のみである。なんという潔さ。映像だけで勝負をしている。キートンの他の作品、「探偵学入門」や「セブンチャンス」等に比べると、開いた口が塞がらないような、人間業とは思えない、驚くべき体技は少ないが、しかし、それを補って余りある、冴えにさえた小技の数々にクスクス笑いがとまらない。押さえておきたいのは、「探偵学入門」等が、台詞などなくても成立する単純なストーリーであるのに比べ、南北戦争を題材にした「キートン将軍」は、列車を使った追いつ追われつが映画の大半を占めているとはいえ、それなりの説明を必要とする物語を抱えている。にもかかわらず、それを台詞なしで成立させていて、だから凄いのだ。
この映画から、刻々と迫っている「竹内集成」をどうすればいいのか、重要なヒントを頂いた。キートンが徹底して台詞を含む一切の音を削り、その<音の不在>が逆に、豊饒な台詞=ことばや戦闘シーンの激しさ等を感じさせたように、わたし(たち)もまた、出来得る限り「台詞のみ」の表現に徹底することで、観客をして、身体の存在をありありと実感し得る方向に誘うことが出来れば、と。