物語の重ね塗り 映画「シークレット・デイ」と「マジカル・ガール」を見る。2017.09.19
先週の金曜日。仕事で京都に来た和田夫妻と会う。和田は斜光社の演出家で、奥さんのさなえは劇団唯一の女優だった。ふたりと最後に会ったのは、JIS企画の「ラストワルツ」鳥取公演をわざわざ松江から見に来てくれた時だから、18年前か。う~ん。今世紀初にして久しぶりのご対面だったから、当然昔話に花が咲いたのだが、よくよく考えてみれば、斜光社が活動していたのは1976年~79年(約40年前!)で、ふたりは斜光社の解散とともに松江の実家に帰ったから、わたしたちが密な関係にあったのはたったの四年間だったのだ。にもかかわらず話のネタが尽きなかったのは、三人ともまだ20代と若く、そして、その四年間がいかに濃密な時間だったかという証だろう。
録画したのに未見の映画多々あり。そんなに暇なわけではないが、HDDが満杯状態なのでどんどん見ないと録画出来なくなってしまう。というわけでこのところ、まるでノルマのように毎日映画を見ているが、例によって例の如く、始まって10分ほど経っても興味をそそられないものはその時点で消去するので、最後まで見るのは10本に1本くらいか。録画するのはおそらく放映される映画の100本に1本くらいだから、1000本に1本しかわたしのお眼鏡に叶わないという計算だ。厳しいィー。
この二週間ほどの間に、エンドマークまで見届けたのは、「シークレット・デイ」(監督エイミー・バーグ)と「マジカル・ガール」(監督カルロス・ベルムト)の2本のみ。前者はアメリカ映画で、後者はスペイン映画。奇しくも、公開はともに2014年だが、物語の中心に女性が置かれ、彼女(たち)の少女時代と、前者は(推定)10年後くらいが、後者は推定30年後くらいが、大胆に重ね塗りされながら物語が進行するという手法も同じだ。まあ、そういう作りがわたし好みだということなのだろうが。
前者は、まだ5、6歳かと思われるふたりの少女が、赤ん坊を誘拐して殺した罪を問われ、10年ほどの刑期を終えてシャバに出た後、一緒にいた両親が目を離したすきに姿を消した少女の<誘拐事件>に、前科のある彼女たちが関与しているのではないかと、警察の捜査対象になって …というお話。ふたりの少女とそれぞれの家族、男女ふたりの刑事、行方不明になってる少女の両親、等々、登場する誰もがなにか、暗い過去を背負い重い現在を抱えているようで、物語の半ば過ぎまで、どういう決着を見るのかとワクワクさせられたが、終盤になって、犯人捜しと犯行に至った理由の明示のみに終始するという、意外な物語の顛末への驚きより、TVドラマによくある<残念な終わり方>に肩透かしを食らう。世界的なベストセラー小説が原作で、映画化の条件として、あれこれと小うるさい制約があったのかもしれない。相当の傑作と思われる後者について書くのは、長くなりそうなので改めて書くことにして。
先に、複数の物語の重ね塗りがわたしの好みかも? と書いたが。間もなく稽古が始まる連続公演、まったく意識していなかったのだが、そんなわたしの好みを体現化したものになりそうな気配。書かれた年代もスタイルも、相当にかけ離れた4篇の戯曲の重ね塗り。誰も言ってくれないから自分で言ってしまおう。これは、「竹内銃一郎(作家・演出家)の集大成」と呼ぶにふさわしい試みと言えよう。