竹内銃一郎のキノG語録

タニマラ(さびしい風)が吹いてる?  「9の遺体事件」の報道に触れて2017.11.04

「竹内集成Ⅵ」の最後、来年の5月上演予定の「動植綵絵」、書き上げる。収められている戯曲は、溶ける魚(秘法壱番館1981年初演)、 ひまわり(秘法零番館1988年初演)、月ノ光(JIS企画1995年初演)、ラメラ(DRY BONES2009年初演)の4本。「月ノ光」は、連続殺人犯が登場するお話で、書いている(正確に言うと書き写している)途中で、昨今世間を騒がしている「9の遺体事件」が発覚し、なんとなくそこに<にじり寄ってるゾ感>があって、ピックアップするのはやめようかとも考えたが、先にも書いたように上演するのは半年後で、おそらくその頃になれば多くの人の関心は他の事件に移っているはずだから、まあいいかな、と。

カフカ研究で知られる池内紀氏に、「恋文物語」(新潮社 刊)という実に楽しい著作がある。古今東西の恋文を取り上げ、それが書かれた裏話(?)を紹介するものだが、その中のひとつに「プラハの殺人者ヨハヒム・パスリー」という章があり、「月ノ光」はそれをヒントに書かれたものだ。7人を殺したヨハヒムの住まいがあったプラハの通称「錬金術師通り」には、彼が住んでいた同じころにカフカも住んでいたらしいという記述から、わたしは、不可解な連続殺人事件の謎を、カフカ風(?)の手品師が解いていく、というお話を思いついたのである。それにしても。

いつものことだが、マスコミのこの種の事件の取り上げ方の浅はかさに呆れてしまう。容疑者を「鬼畜」などと呼ぶ神経がわたしには分からない。子どもの頃よく「バカって言うやつがバカだ」などと言ったものだが、まさに、「鬼畜というやつこそキチク」なのではないか? ひとは誰でも、自分でも理解しがたい<自分>を抱えている。殺人を理解しがたい、許しがたい行為だと言うのなら、なぜ戦争ともなれば、少なからずのひとは勇んでひとを殺し、さらには、その事実を誇り、そして、その種のひとを人々は、国ともども、さしたるためらいもなく「英雄」と呼んで称えるのか。理解しがたいのは<容疑者>よりもこっちの方だ。

みな訳知り顔で、こんな事件はこれまでなかった、容疑者の心理が分からないなどと口を揃えて言っているが、「幸福な家庭は似ているが、不幸な家庭はみな違う」という、トルストイだったか太宰治だったかの言に倣えば、「一般市民はみな似ているが、犯罪者はみな違う」のだから、彼らを理解するのに、これまでの犯罪(者)や一般市民を計る物差しを使ったって、そんなものなんの役にも立たないのだ。

報道によれば、容疑者は各種のSNSを使って被害者と接触したのだという。わたしもこのブログ、そして、最近はほとんどやっていないがツイッターといった、その種のものとはまったくの無関係ではないのだが、実際のところよく分からないまま使っている。ハッシュタグの効用など今回の事件の報道で初めて知ったくらいで …

殺したとされている容疑者と、亡くなった(彼に殺された?)ひとたちの間には、タニマラ(さびしい風)が吹いているように感じられる。お互いの身元も、名前さえ知らないまま「自殺」という言葉でつながるなんて。一方では、目下景気上昇中なんてニュースもあって(ほんと?)。なんだ、このギャップは?! なんかすんごく切ないゾ。

 

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