不足と不自由は発明・発見の母 「花ノ紋」演出の指針①2017.11.06
以下は、今回の出演者たちに送ったメール。11月4日。稽古半ばで使用場所の退館時間になってしまい、稽古場で伝えるべきことが言えなかったので、メールで送ったわけです。
昨日はお疲れさまでした。
気になったところ、こうすれば? と思ったところは後回しにして、先に、今回の演出の指針について簡単に記したいと思います。
リーディングとフツーのお芝居の違い。
改めて言うまでもないことですが、リーディング上演は、フツーの芝居よりも「台詞」の比重がぐんと増します。その昔、唐(十郎)さんが、暗黒舞踏の開祖・土方巽に、芝居は踊りがないから詰らないと言われ、「いや、芝居は台詞が踊ります」と反論、今回の公演チラシの惹句はその唐さんの言葉のパクリなのですが、それはともかく。
いかにしたら台詞=言葉が日常的なリアリティを超えて、踊っているように語るか、というのも重要なポイントなのですが、逆に、フツーの芝居に比べて動きが少ないがゆえに、動きが目立つ、ゆえに、これまた日常的なリアリティを超えて、ひとつひとつの動き・動作を際立たせたい、というのも大きなポイントです。
具体的に言えば。「あたま山心中」で、兄が妹にクスリ瓶とコップを渡すところ、桜の木に触れるところ。「酔・待・草」では、缶ビールを投げ、受け取り、乾杯するところ。「Moon guitar」では、あんながタクミに、ピストルや鞄を渡すところ、等々です。
リーディング上演というスタイルだからこそ出来ること。
実際にやってみて実感されたかと思いますが、例えば、譜面台を持っての移動にはフツーの芝居にはない違和感があるかと思います。観客の方にも同様の違和感があるはずですが、そんなフツーの芝居にはない違和感をいかに有効に機能させるか、というのも演出するにあたっての重要なポイントです。
たとえば。フツーの芝居なら、相手の顔・目を見て台詞をいうところも、基本的に台本を見ながら喋るので、そうはいかない。この違和感、不自然さ、不自由さを際立たせることが、自然な物言い・動きを基本とする近代劇の退屈さを超える、有効な手段になるのではないか。
フツーの芝居の演出では、舞台上にいるときは常に自分の視線がなにを捉えているのか、それを意識してほしい、というようなことを言うのですが、それは視線の意識が、気持ちの安定と集中力の持続につながらはずだと思っているからです。
今回は、おそらく舞台にいる時間の8割以上は、視線は台本を捉えているはず、というか、台本に拘束されているはずで、もしかしたらそれを、メンド臭いと思っている人もいるかもしれませんが、「不足と不自由は発明・発見の母」です。ほとんど台本に向けられている視線が、その「決まり事」から逸脱して、言葉を交わしあう相手に向けられたとき、フツーの芝居にはない、特権的な劇表現になりうるはずです。