竹内銃一郎のキノG語録

生きてあることの寄る辺なさ。  「花ノ紋」解題2  酔・待・草②2017.11.16

「酔・待・草」が収められている「竹内銃一郎戯曲集4」(1996年 而立書房・刊)のあとがきに、この作品について次のように書いている。「これを書いているとき、自分自身、なんと奇妙な戯曲だろうと、わたしはひどく感心し、こんなホンは誰にも書けまいと、興奮もしていたのだが、いまとなっては、いったいなににそれほど感心していたのか、よく分からない」と書き、続いて、いま稽古中の「光と、そしていくつかのもの」の方がもっと変でおかしい、と締めている。「酔・待・草」の初演は1986年だから、それから10年後のこの戯曲についての感想だが、さらにそれから20年の余が経過したいまのわたしのこの戯曲の評価は、「やっぱりこれは相当いかれているゾ」というものだ。大体、短編集である「光と ~」と比べること自体がおかしい。「酔・待・草」は、前回にも書いたように、ほぼひと幕ものである。にも関わらず、飛躍に次ぐ飛躍の離れ業によって構成されているのだ。

物語の構え自体は、ひとことで言うならば、殺人事件の犯人捜しなのだから、特段変わったものではない。新たな人物の登場とともに物語の局面及び登場人物のキャラクターが思わぬ方向に変化するのも、さほど珍しいことではなく、死んだと思われていた人間が生きていた・生き返るというのも、いわゆる恐怖モノではお馴染みの展開だ。変だ、おかしい、というのはそういうところではない。

冒頭の「田舎道。一本の木。夕暮れ」というト書きはベケットの「ゴドー待ち」の写しであるが、劇中にも二度、「ゴドー~」の引用部があるところから、当初は、ふたりの刑事が犯行現場でゴドーならぬ犯人の登場を待っていて、そこに、ゴドー同様奇妙な人物たちが登場する、そんな「ゴドー待ち」の変奏曲を構想していたように思われる。しかし。それにしても過剰に過ぎるナンセンス。例えば

サンダンスが、現場に着いたことの報告を「課長」に電話連絡するのだが、対応がおかしいのですぐに、電話の向こうにいるのは課長ではなく同僚の「タナカ」だと見破り、代わって、課長を名乗って電話口に出たのがまたそうではなくて「アラキ」で、と思ったら「アラキ」の声色を使った「イシカワ」で、と同僚たちの悪ふざけが延々続いたり。チャーリーへの尋問でありながら彼に喋らせず、これまた延々と駄洒落や常套句を繰り返すふたりの刑事は、なにを思ってか、唐突に「座頭市ごっこ」を始めたり、等々。いちいち挙げるのが面倒なほどだ。そしてそれらが、細い細い一本の糸で繋がっていて、目出度く(?)ラストシーンを迎えられるように仕組まれている。「カスミ殺し」の真犯人としてサンダンスに手錠をはめられたブッチは、カオルに「わたしが昨日ここで見たものはなんだったんですか」と聞かれると、「デジャ・ビュ。デ・ビュジャの反対。きっと夢を見たんですよ、正夢ってやつを」と答え、続いて、短い「ゴドー待ち」の引用部があって、サンダンス「じゃあ、行こうか、ブッチ」ブッチ「ああ、ヴォリビアへ」。とふたりが立ち上がりかけたその途端、バリバリと自動小銃の激しい銃声が聞こえる。映画「明日にむかって撃て」のラストシーンの引用である。暗転。明るくなると、カオルがひとり立っていて、冒頭の台詞を語りだす。初演では、紀伊国屋劇場の舞台前面の防火シャッターがガタガタと降りてきて、それが降りきってもまだカオルが語り続けていて、よきところで「おしまい」と。

書いている時も、出来上がった舞台を客席から見ていても、この作品でなにを描かんとしたのか、正直なところ自分ではよく分からなかったのだが、久しぶりに読んだいまはなんとなく分かる。歳を重ねたからだろうか。ひとことで言うならば、「生きてあることの寄る辺なさ」ではないのか。それが、ギャグ・ナンセンスのてんこ盛りのあとに添えられた、ラストシーンの一人ぽっちのカオルに集約されているのだ。

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