分からないものこそ光り輝く? 「チェーホフ流」解題62017.12.29
ああ、あと三日で今年も終わるのか。寒さが一段と厳しくなった今日この頃。11月半ばにシベリアから渡ってきたゆりかもめ軍団が、鴨川のあちこちに集まって、互いの身を寄せ合うようにしてじっと動かないその様を目の当たりにすると、ああ、ほんとに寒いのだと改めて思う。
前回、またいい加減なことを書いてしまった。ミーシャとオーリャはペテルブルグで一か月ぶりの再会を果たそうとして …、などと書いてしまったが、これは微妙に、いや、かなり事実とは異なる。彼らがヤルタで再会したのは夏の終わりで、それからすぐに、ミーシャはイワンと会い、彼に整形を頼み、ペテルブルグの街はずれに部屋を借りているはずだ。で、二幕は、「俺にはペテルブルグの冬は暖かすぎる」という台詞があるから、てことは? そうなのだ。あれから数か月は経っていて、この間、月に一度のペースでふたりは逢瀬を重ねているのだ。にもかかわらず、ふたりはまだノンセックスだと、そういう設定だったのにそれをすっかり忘れてしまって、いや、お恥ずかしい。
部屋に帰ってきたイワンは、手に大きな中華包丁を持っている。それで殺したアーリャをバラバラにして川へ流そうと言うのだ。14人殺しのイワンならではの言い草がおかしい。「それ(川に流したバラバラにした死体)を魚が餌にして、大きくなったところを人間様がいただく、と。無駄がねえ。物事ってものはこうでなくっちゃ。(と、言って笑う)」以下にも、イワン流哲学(屁理屈?)が語られて楽しいが、部屋に入ったときからカーテンの向こうに隠れているミーシャに彼は気づいていて、「なんでも、キリストって野郎は、横のモノだって縦になるって言ったんだってな、復活とか言ってよ。横のモノを縦にする。立ってるものを横にする。俺にいわせりゃ大した違いはねえ。そう、いま、この十四人殺しのイワン様が考えていることと、さっきからカーテンの陰に隠れてる心優しいポドゴーリンの考えていることが、この面同様、殆どそっくり同じようにな。」と言って笑いながら台所の方にゆっくり歩いて行き、カーテンを一気に引き下ろす。舞台は彼の歩みに合わせて暗さを増しており、暗闇の中で男の獣のような悲鳴が聞こえるが、それがどちらのものかは分からない。
エピローグ。奇しくも! 舞台はいまは鴨川に仮住まいしているゆりかもめ達の故郷、シベリア。オーリャとミーシャは、前々回で触れたように、ここから馬ぞりで凍りついた海を渡って逃げようというのだ。しかし。作者であるわたしは、彼らはミーシャとオーリャだとしているが、アーリャが殺されたところも、ミーシャがイワンを殺したところも、実際には見ていないのだから、いま舞台上にいるふたりはいったい誰なのかは分からないはずだ。むろん、それは想定済みで書いている。初演時のアンケートには、このことへの不満を書いたものが、かなりの数があったように記憶しているが、なぜそのことをはっきりさせたいと思うのか、それがわたしには分からない。頭のピントを合わせていただきたいのは、オーリャには目の前の男が、愛するミーシャではなく彼に扮したイワンであることが分からず、ミーシャも、目の前にいるオーリャが愛するオーリャであるとは気づかなかったという、哀しくも笑える事実だ。
オーリャが「グングン沖に出て行って、その先にはなにが?」と聞くと、ミーシャは「それは誰も知らない」と答え、オーリャが「そこは地獄? それとも天国?」と再度の質問をすると、「さあ。どっちにしたって大した違いはないんだ、きっと」と、ミーシャはイワンと同じ台詞を言う。そして、ミーシャが「ああ、オーリャ、わたしのオーリャ」と言うと、「オーリャじゃないでしょ、アーリャ」でしょ、とオーリャは応え、ミーシャはまだ言うかと突っ込み、オーリャは「言うわ、言い続けるわ」と応えて、ふたりは笑い、笑い続けるふたりがこの劇のラスト・ショットとなる。
これでいいのだ。