竹内銃一郎のキノG語録

ホンソメワケベラと「マダラ姫」  「耳ノ鍵」解題⑦2018.02.02

「マダラ姫」というタイトルは、シャーロック・ホームズシリーズの中の一篇、「まだらの紐」からとったものである。内容はほとんど重なるところはない、ともに双子が登場すること以外は。しかしそこも、「紐」の方は姉妹で、こちらの「姫」は兄妹と違っている。この作品の双子の登場は、すでに「チェーホフ流」解題5で触れているが、さっきまたまたケアレス・ミスを発見。『「氷の涯」以外はみな、顔の似てない双子、つまり、ふたりの俳優が演じることを前提にしている』などと書いているが、違います、登場するのは妹の「あさひ」のみ。そもそも、話自体が音信不通になってる兄の「正午」探しを軸に展開されていて、なおかつ、「あさひ」はもしかしたら「正午」なのでは? という疑念が、物語の進行とともに高まっていくところがこの劇の面白さなのだから、いったいわたしはなにを書いているのか。筆が滑った? 恥ずかしいというより情けないデス。

この作品については、データ化が完了した2014・12・26のブログで触れている。そこにも書かれているが、これの上演後の批評家及び観客の不評・無視に納得がいかず、公にはしなかったが、近しい友人・知人には「もう芝居なんかやめたる!」と引退宣言をし、むろんそれはハッタリではなく、本当にその時はそう思ったのだった。同様のことをこれまでも繰り返し書いているが、絵画や映画や詩や小説は、モノとして50年後100年後に残り、後に当初の評価が覆されることはよくあることだが、戯曲はともかく、舞台作品は生まれるそばから消えていく儚いもので、だからこそわたしは面白いと思っているのだが、50年後100年後に再評価されるなどということはありえない、だから、こっちと他者の評価の食い違いが大き過ぎると、ほんと、やってられないのだ。などと思うのは、おそらく、芝居に関わるようになって20年ほど、わたしはあまりに恵まれた環境にいたからだろう。

「マダラ姫」は「まだらの紐」から生まれたわけではない。たまたま本屋で手に取った、桑村哲生の「性転換する魚たち ―サンゴ礁の海から―」(岩波新書)が面白く、そこで取り上げられているホンソメワケベラのように、必要に応じて(?)性転換を繰り返す登場人物を主人公にして、なにか出来ないかと考え、そこから、まだら色、まだらの紐、兄と妹が双子の「マダラ姫」と連想されていったのだ。冒頭のト書きは以下のように書かれている。

物語の設定は、冬も間近の北国の海辺の、瀟洒な別荘、ということになっている。が、実際の舞台(装置)は、建設途中で投げ出されてしまったような、稽古場に作られた仮の舞台装置のような、見てはいけないものが剥きだされた、見ようによっては間抜けな感じの、そんな造りになっている(はずだ)。
そう。幕があいたその瞬間に、観客たちが、これから始まる物語の行く末と、登場人物たちの深刻かつ滑稽な振る舞いを予感してしまうような …

 

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