讃 ケーシー高峰ともうひとり 「新・事件 わが歌は花いちもんめ」を見る。2018.02.05
先週の土曜から「耳ノ鍵」の稽古が始まった。当然のことながら、自分で黙読するのとひとが声を出して読むのを聞くのとは、ずいぶん違う。旧ミスターを演じる松本くんが長台詞を言ってる途中で、おそらく気合いを入れ過ぎたためだろう、息切れしてしまったのに笑い、マシンを演じる武田さんの「ナイスバッティング!」等、短い台詞を入れるタイミングと音色のよさにもまた笑う。まずまず順調な滑り出しでひと安心。ということで、「本日の耳ノ鍵」はこれくらいにして。書きたいのはケーシー高峰ともうひとりのこと。
昨日、録画しておいた、去年の12月に亡くなったシナリオライター・早坂暁の追悼番組を見たのだが、その中で放映された、「新・事件 わが歌は花いちもんめ」に衝撃を受ける。早坂氏が生前、自分のもっとも好きな作品のひとつと言っていたらしい本作、もちろん本もよく出来ていて、演出も手堅く、出演者の誰もが目一杯と思える演技を見せていたが、中でひと際目立っていたのが、哀しい殺人犯を演じたケーシー高峰と、そして、彼に殺された女性の子どもを演じた小学3~4年生の女の子。
ケーシー高峰は現在83歳で、おそらく現役の芸人では内海桂子に次ぐ長老かと思われるが、いまなお現在進行形の若さを感じさせる、そこが他の年長者と大きく違うところだ。嘘とホントをごっちゃにした彼の医事エロ漫談は、ひとり芸としては当代随一の面白さと言っていいが、そんなケーシーが、前述したような深刻きわまる切ない役柄を見事に演じて、そのギャップのあまりの大きさへの驚きも手伝ったのだろう、わたしは感動し、滂沱の涙を流してしまったのだった。放映されたのは全5話のなかの最終回だけで、1~4話は合わせて10数分ほどにまとめられていて、話のおおよそは分かったものの少なからずもどかしさを感じたのだが、しかし、ケーシーと女の子に関しては、もうそれだけで十分過ぎるほど。
ケーシーが演じた役は、東北から東京へ出稼ぎに来ていた男。仕事中に左手首を痛めて力仕事が出来なくなり、こんな体で田舎に帰っても百姓仕事は出来ず、もうどこにも行き場(生き場)がなくなっている。今日死のうか明日には …と思っていたところで、殺した女から街で声をかけられる。彼女も東北出身者、家族と音信不通のまま数年、体を売って過ごす日々、それにも疲れ果て、男と同様、いつ死のうかと思いあぐねていた。そんなふたりが出会い、「わたしを殺して」という女の頼みを男は引き受け、おれもすぐに後を追うからと約束をするが、細かな事情が重なってそれが叶わず、男は金欲しさに女を殺したと警察に嘘をつき、死刑になって女との約束を果たそうとする。樫山文枝演じる女とのやりとり、彼の弁護を担当する弁護士役の若山富三郎とのやりとり、どちらも本物? と思わせる迫真の演技を見せる。そして、もうひとり。
樫山文枝は夫の母親に頼まれて彼女の自殺の手助けをし、その場にいあわせた娘に、このことは誰にも言ってはダメだと強く言いきかす。女の子はそれ以来、誰とも一言も喋らなくなり、小学校にも行かなくなってしまう。結果的に、義母を殺してしまったこと、そして娘を不幸な状態に追い込んでしまったことに重い責任を感じて、いたたまれなくなり、家を飛び出したのだが。娘役の10歳くらいかと思われる女の子は、太く濃い眉ときりりと結んだ唇と食い入るように対象を見る眼差しがとても印象的で、さもわたし可愛いでしょといいたげな最近の子役とは根っこが違い、彼女もケーシーと同様、この子以外にこの役を誰が出来ようと思わせる迫真の演技を見せる、あ、この顔はどこかで見たことが思っていたが、いま思い出した、その昔、水泳の平泳ぎでオリンピックに出場した長崎宏子に似ているのだ。彼女はいまどこでなにをしているのだろう? 30数年前に作られたドラマだから、もう50に手が届こうかという、いいおばちゃんになっているかと思われるが。
この作品で描かれる<哀しさ>の根っこには<貧困>がある。多くの人々がバブル景気に浮かれていた時代を背景にしていることが、余計に哀れを誘うのだ。それにしても。足が悪くてなにも出来ない自分は余計者だといって、自殺する樫山の義母の年齢は、いまのわたしと変わらぬ71歳。この時代に優しそうなお婆ちゃん役の多くを引き受けていた鈴木光江が演じていたのだが、そのあまりの老け具合にもショックを受けた。