お笑いなされ、「マダラ姫」の難解さをこそ。 「耳ノ鍵」解題⑧2018.02.07
「マダラ姫」、時間をかけて全編読み直す。「東京大仏心中」の父と娘が、大仏の耳の奥にある海に入水するというオチを、どこから思いついたのかわれながら不可解だが、「マダラ姫」の、マン・レイの「自由の手」を模倣した手首のオブジェを物語の展開のキーにするアイデアも、いったいどこから湧いて来たのか? と考えながら、こういうことか、と合点した。いや、先の自問に関する解ではなく、シビアな出演者諸兄には好評だったのに、「マダラ姫」はなぜ観客からの支持を得られなかったのか、ということが。
答えは腰が砕けるほど簡単なものだ。出演者が一か月半ほどの稽古の間に台本(の台詞)を読み聞きする回数は、少なめに見積もっても100は下るまい。だから彼らは、最初にあったはずのホンへの戸惑いをある時期から払拭出来、そして面白いと思ったのだ(多分)。しかし、大半の観客はたった一回しか舞台を見ないし、台詞を聞かない。つまり、幸か不幸か「マダラ姫」は、一回見た・聞いただけで理解するのは困難な芝居で(多分)、だから拒絶反応を示したのだ(多分)。確かに、次から次へこれでもかとばかり謎が投げかけられ、その謎は順次解かれていくのだが、その一応の解答が信用していいものか定かでなく、うん? と思っているうちに、また別の謎が投げかけられるのだ。少なからずのひとは、もう勝手にしてくれと、理解しようとする努力(?)を途中で放棄したのかもしれない。しかし、この手のものの賢明な対処法はあるのだ。竹内集成Ⅱで取り上げた「酔・待・草」の地方公演でのことである。
以前にも書いたような気がするが。場所は新潟の柏崎。出演者のひとりだった小林三四郎の生まれ故郷で、なおかつ彼の父親がお寺の住職であることも手伝って、客席は檀家の方々と思しき年配の方々でほぼ満員。当然のことながら大半のお客は、いわゆる「小劇場」の芝居など見たことのない方々で、芝居が始まってしばらくは、なんだこれは? という戸惑いが客席を覆っていた。それが、中頃を過ぎた頃だったろうか、多くの観客がまるで示し合わせていたかのように、それまでの静寂がなにかの間違いであったかのように、まるで箸が転がってもオカシイと感じる乙女たちのように、まあ笑うこと笑うこと。わたしは二階席からその光景を見ていたのだが、おそらく、観客たちの多くは、いったいなにをきっかけにしたのか分からないが、理解しようという努力(?)を無駄だと悟り、目の前で起こっていることにただ反応すればいいのだとケツを捲ったのだ。さすが年長者、伊達に歳を食っているわけではないなと、わたしはすっかり感心したのだった。
わたしが芝居の演出に際して想定している観客は、耳が聞こえないひとや子どもや外人等々の、つまりは日本語がよく分からないひとたちである。これを別の言い方に変えれば、台詞は二の次で、見てれば分かるように、飽きさせないようにするにはどうすればいいのか、と考えるのが基本形なのだ。しかし、少なからずの観客、とりわけ批評家諸兄は、台詞重視の観点から、分かる分からない、面白い面白くない等々のジャッジを芝居に下すのだ。ということは? 台本の難解さから不評をかった「マダラ姫」である、台詞が前面に押し出されるリーディング公演では、さらに<分からん=不評>の声が高まるのでは? という予想は容易に出来るが、逆に、俳優の動きが抑制されれば理解度が高まるのかも? という虫のいい期待も出来て。いずれにせよ、結果は蓋を開けてみなければ分からない。お客の反応が楽しみな「マダラ姫」です。