「モナ美」の超えてはならない一線とは? 「耳ノ鍵」解題⑪2018.02.19
5月に松本(修)くん率いる近大生の演劇集団・the nextageが、「みず色の空、~」を上演してくれるというので、戯曲のデータ化を進めている。何か所か明らかな校正ミスとわたしの無知からくる間違いがあり、それらを修正しながらの作業。ついでに、台詞もカットしたり、言い回しを変えたり、ト書きをなるべく詳しく分かりやすい方向へ書き直し。こういう風に上演の話があれば、データ化という空しい作業も楽しく出来るというものだ。ああ、もっと多くの竹内戯曲の上演希望が寄せられたなら!
「チェーホフ流」解題にも書いたように、「みず色の空、~」は登場人物が22人という大作(?)だが、「モナ美」の登場人物も18人とかなりの数だ、しかし、上演は7人の俳優でまかなった。モナ美役とトモ世役の俳優はその役のみだから、他の5人で16役をこなしたわけだ。両作が似ているところはまだある。「みず色の空、~」はユキコの、「モナ美」はトモ世の、ともに回想録である点。前者は劇の途中で何度かユキコの日記が読まれ、後者でもシーン終わりでトモ世の、モナ美との思い出の断片が語られる。前者は50年ほど前の高校二年時の夏の思い出、後者は約50年にわたるふたりの交友の記憶と、ともに50年という歳月が流れてはいるが、この点は微妙に違っているが。
自分で書いておいてこんなことを書くのはアレだが、ナレーション風のひとり語りで物語を進行・展開させるのは、会話・対話による進行・展開を基本とする近代劇では、安易に過ぎる反則的方法と言えよう。対話・会話では手間取りそうな事柄も、ひとり語りなら、その困難を容易に乗り越えられる、その利便性もさることながら、彼・彼女が語ることは、客観的な裏付けがあろうとなかろうと、絶対的真実であることが前提となっており、だから、どこのどなた様でも反論は許されない、問題はここにある。しかし、だからこそ、わたしのように論理的飛躍、いや非論理的な飛躍にさえ走りがちな者には、<ナレーションによるまとめ>からの物語の進行・展開はとても結構な方法なのだ。まあ、シェイクスピア劇なんて重要な台詞のほとんどはモノローグだし。あれ? チェーホフも?
以前にも書いたように、「耳ノ鍵」のキャッチコピーは、「家族の深淵に、愛に行く」というもので、これまでに取り上げた3本は、いずれも近親相姦という<超えてはならない一線>を超えてしまうアブナイお話だったが、「モナ美」もまた、<イケナイ一線>を超えてしまうお話だ。しかし、前の3作とは超えてしまう<線>の材質が違う。確かに、モナ美はトモ世の息子である究と性的な関係を結び、そうなってしまったのは、最初に会った時の究が、幼くして亡くなった弟のコウ平とそっくりだったからで、だから、モナ美にとって究との関係は疑似的な近親相姦だと言えなくもない。しかし、先に書いた<イケナイ一線>とはこのことを指すのではない。