竹内銃一郎のキノG語録

トモ世はその一線を超えて、孤児に?! 「耳ノ鍵」解題⑬2018.02.28

YouTubeで中田ダイマル・ラケットの漫才を見て、笑い転げる。「後にも先にも、ダイラケに肩を並べる漫才はなし」と改めて思う。本番間近のこの時期に、なぜダイラケなど見たかと言うと、彼らの「家庭混戦記」という漫才が近親相姦(風の)ネタで、その確認のために。残念ながらその詳細に触れてる時間がないので、興味ある方にはYouTubeでご覧いただくことにして、話を先に進めねば。そう、「超えてはならない一線」の話を。

超えてしまったのは、モナ美ではなく、もうひとりのヒロイン、トモ世の方である。彼女は、モナ美と、そして、モナ美と結婚するつもりだと語る息子の究を前にして、ふたりの結婚を押しとどめるために、明らかにすべきでない<事実>を明らかにしてしまう。モナ美はかって、究の父と性的な関係にあったこと、更には、彼の子どもを産んだことまで。女の子であったらしいその子どもは生まれて間もなく亡くなってしまったのだが、彼女がまだ存命で、究とモナ美が結婚したとしたら、その子と究はいったいどういう関係になるのか? その子から見れば弟であるはずの究が、自分の母と結婚したら「お父さん」になってしまうのだ⁉ 前述の「家庭混戦記」はこんな倒錯(?)を面白おかしく語るものである。

近親相姦は現在、そこに暴力が介在していなければ法的に罰せられることはないはずだが、その事実が他の知るところとなれば、社会的制裁、つまり、市民生活から排除されるであろうことは容易に想像できる。しかし、その被差別が、ふたりの関係をより強固で緊密なものにするであろうこともまた容易に想像できる。しかし、トモ世のなした「秘密の暴露」はどうか。幼児期より、音信不通の10年を挟んではいるが、数十年にわたり営々と続いていたモナ美との友人関係も、息子との関係も、先の発言によって壊れ、復元が難しいものになってしまったのだ。言うまでもなく、<その一線>を超えさせたのはモナ美である。モナ美さえ究との関係を自制してくれていれば、そんな誰の得にもならない話を露にすることはなかったのだ。トモ世が理性的な女性であることは、自他ともに認めるところである。そんな彼女が、失うものがあまりに大き過ぎる言葉を吐いたのだ。つまり、彼女はそのとき理性を失い、適正な判断が出来ない心的状況にあったということであるが、そこまで追い詰めたのは、言葉である。三人の言葉が絡んでもつれてその果てに、トモ世は超えてはならない一線を超え、彼女の堪忍袋の緒は切られてしまったのだ。彼女は<その言葉>の発語によって、とって変わるモノのない親密な関係を失った。つまり、彼女は一線を超えた言葉によって<精神的孤児>になってしまったのである。もう一か月ほど前になるのか。アキ・カウリスマスもご推奨の映画、ムルナウの「サンライズ」を見て、言葉=台詞がないということはなんて清々しいことよ、と、それこそ自らの言葉を失うほどのショックを受けた。しかし、少し時間が経つと、言葉でしか語ることが出来ないことはあるはずだ、演劇とは言葉の誇示(孤児?)ではないかという、書くのも気恥ずかしい、<当たり前>を再確認したのだった。

これを書いている途中、わたしがツイートしたことへの反応がすさまじく、信じられないほどドカドカ届いて、ほとんど集中できないという状態になる。なにをツイートしたのかというと、先ごろ亡くなった大杉漣氏のことで、改めて彼の人気の凄さを思い知らされたのだったが(まだ続々届いてる!)、彼がかって所属していた転形劇場は、ある時期からどんどん台詞を削って、いわゆる「沈黙劇」にまで到達、それが世界的にも高い評価を受けたのだった。しかし、前述したように、演劇は言葉の誇示から成るものだと考えるわたしは、転形劇場への高い評価に、昔も今も与していない。言葉がもたらすわずらわしさを排除して演劇? それって結局、きれいごとにしかならないんじゃないの? と。

 

 

 

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