竹内銃一郎のキノG語録

モロクトカゲのように  「タニマラ」が吹く。2018.03.13

森友関係の公文書改ざんで大盛り上がりのマスコミ、それにしても。なんてうまい具合にニュースネタが途切れることなく続々と。

総選挙の自民党圧勝で「モリカケ問題」は一気に沈静化してしまったが、それに代わって、日馬富士の暴力事件から始まった「相撲協会問題」。どう考えても一般視聴者の関心がそれほどあったはずはないのだが、他にこれというネタがないのでズルズルと引っ張り続け、年が変わったらありがたいことにオリンピックが始まって、少なくともわたしの関心をはるかに上回る大量の時間を使っての連日の過熱報道。閉幕して一週間ほど経ってもメダリストたちに関する報道が続き、「ええ加減にせえよ」と思っていたところに、今度はレスリング協会のパワハラ問題でひと騒ぎ。しかし、これ以上の盛り上がりは難しいのではと思っていたら、待ってましたとばかりに「森友問題」の再度の浮上。マスコミ関係者はみな「大ネタが来た、大漁だああ!」と万歳しながら叫んでいるのではないか。

ニュースでは、官・省庁のゆるむ・たるみを非難する声がかまびすしいが、ゆるんでいるのはそこだけではなく、この国全体、いや、多くの先進国でも同様ではないか。米国やロシアや中国などがここにきて、ほんまカイナ? と思えるほど独裁色を増しているのは、トップとその周辺が調子に乗っているというより、ゆるみを引き締めるにはこの選択しかないと思っているからではないだろうか。そういう考えに同調する国民も多くいるのだ。日本のアベちゃんも右に倣えだ。

なぜそんなことになっているのか。誰もが「次の目標」を見失ってしまっているからではないだろうか。だから国は経済的上昇・繁栄を「分かりやすい数字」にして前面に押し出し、数字さえ上向きになっていれば、実際は金回りがいいのは少数者に限られているのに、そんな中身などどうでもよく、それはTV局等々も同様で、内容や仕上がり具合は二の次三の次、視聴率さえ一定の数字を確保できればそれでOKなのだ。おそらく、もうベラボーな数字なんて望んでいないのだ。どんな番組を見ても変わり映えのしない出演者が顔を並べているのはそのためだろう。いや、そもそも論的には、「次の目標」を設定しないと足元のふらつきを押さえられない、という生き方に問題ありとわたしは思っているのだが …。

朝、「羽鳥慎一モーニングショー」を見る。ジャーナリストの青木理と先週は休んでいた番組レギュラーの玉川徹、ふたりの論客が上手側の椅子に座り、中央のパネルの前には政治評論家で、おそらく「安倍政権の防波堤」を自任しているであろう田崎某と、「森友公文書改ざん問題」について侃々諤々。ネットで「玉川徹」を検索すると、彼への非難が続々出てきて、その大半は、「偉そうに。何様だ!」というもの。察するに、世の多くの人は、というより、ツイッター等を頻繁に利用する系のひとは、TVという<表の場>で自分の思うところを臆することなく、論理的に展開する彼のような人間が嫌いなのだろう。そしてその逆の、例えば、それほど美味しくなくても「美味しい~!」と叫ぶような<嘘つき>にはきわめて鷹揚で、だからこそ(?)その種のひと、そしてTV局等々のマスコミも、言っていることの大半は、客観的な立場を標榜しながら、あべちゃんを守るためなら多少のゴマカシ厭ヤセヌとばかり詭弁を繰り返す田崎某を受け入れ、重用するのだろう。それにしても。青木・玉川コンビの舌鋒鋭いツッコミにうまく反論できず、言葉に詰まって悔しそうな哀しそうな顔をしていた田崎某。公の場でこんな目にあわされたら、わたしなら次からもう出ないけど。これまで何度も同じ目にあっているのに、懲りないんだなあ、彼は。

ああ、また例によって、前置きが長くなった。というより、とりあえず今回はこれで。いや、今回のタイトルの説明だけでも。モロクトカゲは、オーストラリアの中西部の砂漠に住んでいる生き物で、全身にトゲが生えていて、まさに鎧・甲冑を身に着けているかのよう。砂漠なので水がなく、しかし、全身に微細な穴があいていて、そこから水を吸い上げる機能付き。主食はアリ。そんな極限の地でも生き抜く知恵とからだをわたしも欲しいと、そういうことでつけたタイトルなのですが …

 

一覧