竹内銃一郎のキノG語録

みちづれ  「タニマラ 竹内集成Ⅴ」について2018.03.15

このブログ、文章の冒頭にマクラを振るのを基本スタイルとしているが、そのマクラが長すぎてなかなか本題に至らないという失態が続いている。と書きながら、今回もその気配が漂ってきているので、早速本題へ。

4月20日から始まる「タニマラ」は、一年ほど前にこのブログで触れた、映画「チザム」の中で耳にした、いや、字幕で目にした言葉である。その意味はタイトルに括弧内に書いた通り、「さびしい風」であるらしい。「らしい」と付すのは、日本語の字幕ではそう書かれていたが、その正しさを確認することが出来ていないからだ。

それは喜びと悲しみの間を吹き抜ける

これは今度の公演チラシにあるキャッチコピーだが、これも先の映画で台詞として語られていたような気がするが、「タニマラ」という言葉が吐かれた前後の文脈から、わたしがそう感じただけのことかも知れない。今回ピックアップした戯曲は以下の4篇。

○今は昔、栄養映画館 (1983年初演 桃の会)
ふたりの男が裸にされる?! イヨネスコの「椅子」を換骨奪胎した、衝撃の笑劇。
○かごの鳥 (1987年初演 鳩ぽっぽ商会)
地下室に閉じ込められたふたりの乙女。これは誰の仕業か。彼女たちの運命やいかに?
○金色の魚 (1996年初演 劇団ACM)
金色の魚に恋した母は海に消え …。P・クレーの絵をモチーフにした短編集「光と、そしていくつかのもの」の中の一篇。
○チュニジアの歌姫 (1997年初演 JIS企画)
いまはチュニジアに住むかつての世界的アイドルと、映画監督Kは不思議な糸に操られ …?

連続上演各回の戯曲は、共通するテーマをもとに選んでいるわけではなく、「チェーホフ流」以外は、<リーディング>に向いているのではないかと、あらかじめ選んでおいた30本ほどの戯曲から、<組み合わせの妙>を意識して選んだ数本である。選び・組み合わせて出来上がった台本からタイトルを考え、今回は「タニマラ」と命名したわけだ。だからと言って、ここに選ばれた作品にとりわけ「さびしい風」が吹いているかと言うと、そうとは思えず、わたしの作品のほとんどすべてに「タニマラ」は吹いてる。ということは、「タニマラ」は「竹内銃一郎集成」全体の<まとめ的タイトル>と言ってよいのかも知れない。ああ、もうこの企画も、これを含めてあと2回で終わるのだ。

毎回の出演者はわたしも含めて4~5人と、これもあらかじめ決めているので、基本的に多人数が出演する戯曲は避けている。だから「チェーホフ流」で選んだ22人の登場人物を誇る「みず色の空、~」は、先に記した<組み合わせの妙>を狙った奇手と言えよう。「今は昔、栄養映画館」と「かごの鳥」は、前者が男性、後者が女性の、それぞれ二人芝居である。ついでだから書いておこう、前者にはわたしも出演する。「金色の魚」と「チュニジアの歌姫」は、ともに、パウル・クレーの作品をモチーフにしたものである。後者の登場人物は7名で、上演時間2時間ほどの中から15分くらいを切り取ってお見せすることになるが、前者は上記のように短編集の中の一篇なので、作品丸ごとお見せすることが出来る。

これまで何度も不思議な符合について書いているが、つい最近も。昨日、日本映画CHで放映された「夢千代日記」を見ていたら(録画したもの)、全5回の中の4回目、最初に流れる出演者名の中に、このブログの「落涙記」(3/6)で触れた、沢田情児の名前があってビックリ。最初にNHKで放映された時にもこれは全部見ているはずだが、30数年前のこと、彼が出ていたことなどすっかり忘れていたのだ。「夢千代日記」は登場人物の多くが、不治の病等、様々な生きていく困難を抱えていて、もう涙なくしては見られない秀作ドラマだが、情児の名前を見た途端にハラハラとまたもや落涙、まだドラマは始まっていないのに。今回のタイトルの「みちづれ」はこのドラマの最終回で何度も繰り返される言葉である。そこには深い意味合いが込められているのだが、わたしはこの言葉から、情児らと過ごした(みちづれした)至福の数年のあれこれを想起し、そして、「竹内集成」という御大層な企画も、あの数年があったからこそ可能だったのだと、改めて感じ入るのである。

タイトルにある「Ⅴ」は、アルファベットの「ヴイ」ではなくローマ数字の「5」である。念のため。

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