竹内銃一郎のキノG語録

延々と続くあと5分   「タニマラ」メモ③2018.03.24

「今は昔、~」のストーリーのおおよそは前回も触れたが。お客の姿は見えないが、椅子はどんどん増えていくというイヨネスコの「椅子」に対して、こちらはまったく客は来ないが、行くから席の確保をという電話が、何本もかかってきて、中でも、男1(自称・映画監督)の恩人である「大将」と「御大」が、相手に負けまいと激烈な競争を始め、確保しておかなければならない席の数が膨大なものになり、ふたりの着ている衣服だけでは対応できなくなってしまって …というお話である。パンツ一丁の男がふたり、呆然と立ち尽くすその様は、悲しく哀れで、なおかつおかしい。まさにタニマラが吹くには絶好のシチュエーションである。それからもうひとつ、この戯曲の柱があって、それは、延々と<あと5分>が続くことである。

あと5分で開会だからとふたりは焦り、そして誰も現れないから不安に駆られるわけだが、なぜか(?)<あと5分>は4分3分と縮まることなく、逆に10分20分と延びることもない。何度かその不可解にふたりは首を傾げるのだが、その度に、「さっきは外回りの5分、いまは内回りの5分」などと屁理屈をかまして、そんな当たり前の疑問を追いやる。この<延々と続くあと5分>にも元ネタがあり、それは、わが師・大和屋さんの映画「荒野のダッチワイフ」である。とは言っても、あちらは、俗にいう<死ぬ間際には、それまでの人生が走馬灯のように眼前を行き過ぎる>的なもので、つまり、ひとりの男が死ぬ・殺される間際に、<夢のような時間>が提示され、その事実が伏せられたまま物語は進行するので、彼=主人公の死がことさらに切なく無残に思われるという仕掛けだ。この作品にも元ネタがあって、それはロベール・エンリコの「ふくろうの河」であると、大和屋さん自身からお聞きした。これがどんな映画であるかは、ウィキにでもあたっていただいて …。この<あと5分>については、書いていて思い出したことがある。わたしは愛知県の出身なのだが、子どもの頃、テレビやラジオでよく耳にしたCMに「あと5分、坊やのお土産、名鉄で」というのがあったのだ。もしかしたら、頭のスミにこれがあったのかも知れない。名鉄とは名古屋駅のすぐそばにある百貨店のこと。

時間は常に一様ではない。同じ5分でも長く感じる5分と短く感じられる5分があることなど、誰もがふだんの生活で経験することである。別に奇をてらって延々と続く5分の話を作ったわけではない、と改めて書かねばならないのは、しつこいようだが、わたしを「不条理劇の作家」という檻から出すまいとする輩がいまだに後を絶たないからである。

C・イーストウッドの新作「15時17分、パリ行き」を見る。まるでホーム・ムービーのような、主役の米国の3人の若者たちのヨーロッパ旅行が結構な時間を占めていて、その時は適当なところでカットしてくれません? と思っていたが、いま、思い返してみると、それに続く、走る列車内の彼らとテロリストとの格闘シーンの生々しさよりも、あの退屈な、さしたることなどなにも起きない時間の方が<なにかを見た、見てしまった>と思わせるのだ。なぜ? それにしても。主役を演じた3人が実際の事件に関わった当人たちであることは事前に知っていたが、テロリストの銃弾を受けて、瀕死の重傷を負ったおじさんまでが当人だったとは! みんな上手いんですよ。監督の技量の凄さもあるのだろうが、こういうのを見せられると、プロの俳優の定義とは? と考えてしまう。

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