「ひまわり」の裏表 「動植綵絵」メモ⑤2018.05.07
またもやの間違い。前回、「食卓㊙法 ~」上演中の客席に、鰻を焼く匂いが漂ったと書き、「ひまわり」でもすき焼きの匂いが …と書いて、これ自体に間違いはないのだが、劇場は劇団アトリエではなくスズナリで、劇団アトリエの客席をすき焼きの匂いで充満させたのは、「恋愛日記2」であった。(訂正済)
さて、その「ひまわり」に関するあれこれ。チラシ等にも書かれているように、チェー氏の「三人姉妹」とシェイ氏の「リア王」をドッキングさせた作品で、両作の台詞も多々引用している。どうしてこんなことを考え、思いついたのか。今となっては分からない。特に高尚な考えがあったわけではないはずだ。ある日ある時、両作とも<三人姉妹もの>であることに気づき、これをキーにしてなんとか、と思ったのだ、おそらく。シェイクスピア研究者の小田島雄志氏に、この芝居を見に来られた時であったか、同様のネタで作られた戯曲は他にも? とお聞きしたら、わたしの知る限り、世界演劇史上初めてでしょうとのご返事だった。
劇の中心を担うのは、三人姉妹が父とともに住む家に、「アルバイトの父、求む」という新聞の求人広告を見てやって来た男である。彼の人物設定は、劇中でヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」の台詞を引用して語るところから、この映画の主人公をヒントにしたかと思われるが、男性には誰しも<放浪憧憬傾向>があるというのは、以前から考えていたことで、だから、彼が家族を捨てて家を出たのは、家庭・家族が嫌になったからというより、心のどこかで眠っていた<此処ではない別の何処かに行きたい傾向>が、なにかをきっかけにして目覚めたからなのだ。それは自由への逃走=担うべき責任・守るべき規則の放棄とも言えよう。自由と孤独は一枚のコインの裏表である。もうひとりの、戸籍上では三人姉妹の父親である男とともども、最終的に<ひとりぽっち>になるのは、必然の報いと言えよう。
登場人物は、5人の疑似家族(?)の他に、三人姉妹を手玉に取るエドマンドとガラス吹きの男1、2の計8人。劇はふたりのガラス吹きの登場とともに始まり、「働かなくっちゃ、ただもう働かなくてはねえ」と、仕事をしながら「三人姉妹」のラストの台詞を語る彼らによって、幕が下ろされる。ふたりもまた<家族の問題>を抱えていて、というか、冒頭で、男1が母を、男2は息子を殺していることを自ら明らかにし、更には、最後にエドマンドが暗闇の中で何者かに殺されてしまうのだが、それも彼らがやったことを自ら明らかにする。などと書けば、なんと殺伐な! と思われるであろうが、他の作品と同様、本作の基調は<喜劇的>と形容するほかに手はなく …。