ラメラ、それは不死のもの。 「動植綵絵」メモ⑫2018.05.19
先日、散歩の途中に立ち寄った、四条烏丸にある某大型書店でのこと。入口近くに置かれた雑誌・週刊誌のコーナーでちょいと立ち読み、帰ろうとした視界に「芸術書コーナー」という看板(案内?)が。入ってみると、予想はしていたが現代演劇関連書はたった一冊。おまけに、おそらく30代半ばであろう若い演劇人7,8人の名前が並んだ、わたしの知らない著者のその本、評論集なのかインタヴューを集めたものか、びっしりとサランラップ風(?)のもので封がしてあって内容分からず、著者の意志なのか、出版社からの指示なのか、とにかく立ち読み許さじというその姿勢に理解届かず、わたし思わずため息を洩らす。フー。もちろん、戯曲(集)などあった形跡もない。改めて、この国の演劇(及び出版業界)が置かれている状況の厳しさを痛感。そして、間もなく終わろうとしている「竹内銃一郎集成」連続上演、さほどの考えもないまま始めたのだが、この現状を鑑みれば、それなりの意義があったのではないか、と思うに至った。だって関西きっての大型書店に、戯曲(集)が一冊もないんですよ。てことは、とりわけ若いひとなど、「戯曲」なるものの存在さえ知らないなんてことは、十分に考えられるわけで。戯曲のデータ化作業に拍車がかかった感じだが、ふと、戯曲集の刊行を考える。いや、わたしの戯曲ではなく、若い無名のひとのものから、わたしよりも年齢も作品レベルも上級の方々のものまで、詩人(現代詩作家)の荒川洋治氏のように、後世まで残しておくべしと考える戯曲の本をわたしが出すのだ。100~200部ならそれほど費用もかかるまい? 因みに。荒川氏はわたしよりも2歳年下で、学生時代から(ひとさまの)詩集を出版、ウィキによれば刊行数は200を超えるとか。凄い!
さて、最終公演の最後に取り上げるのは、「ラメラ」(初演2009年 DRY BONES)。この作品の前に書いたのは、わたしが勝手に茂山ブラザーズと呼んでいた狂言師三人、正邦・宗彦・逸平とやっていた「伝統の現在」で上演された「怪談 木霊女房」だから、これは四年ぶりの新作上演だった。以前にも何度か書いたはずだが。2004年に発表した「マダラ姫」が終わった時点で、わたしはもうこれで演劇の現場からは足を洗おうと決めていた。自分の作品が観客に受け入れられないという実感を拭い去ることが出来なくなったこと、そして、とにかく書き上りが遅くて、俳優・スタッフ諸兄にこれ以上迷惑をおかけするわけにはいかないという心苦しさとからである。それが、ひょんなことから学生たちと劇団を立ち上げることになり、最初は学生にホンを書いて貰っていたのだが、上演に叶うよう、それに細々手を入れてるうちに、こんなことなら自分で書いた方が早いわ、と思って、目出度く(?)カムバックということに。ラメラとは、S・ジジェクの「ラカンはこう読め」で知ったエイリアンの一種だが、その肝心のネタ本が手元になく、劇中に語られる台詞をもって、ラメラのなんたるかをご理解いただこう。
それは何か薄いもので、アメーバーのように移動し、どこにでも入っていきます、どこにでも。それはアメーバーがそうであるように不死のものです。死にません。そしてそれは走り回ります。それとはもちろんラメラです。あなたが静かに眠っている間にこいつがやってきて …