竹内銃一郎のキノG語録

「動植綵絵」公演パンフ原稿2018.05.21

ご挨拶
昨年10月から始めた「竹内銃一郎集成」連続上演も、今回で終了となります。
お忙しい中、ご来場いただいた皆様、とりわけ、毎回欠かさず観劇いただいた方々には、いったいどんな言葉でお礼を申し上げてよいのやら。
「そこに映画だけがある」とは、「ハワード・ホークス映画読本」(国書刊行会 刊)の中で頻出する、著者・山田宏一氏の殺し文句ですが、今回のわたし(ども)の試みは、まさに「そこにせりふだけがある」というものでした。
演劇とは、ことばとことば、からだとからだ、ことばとからだの、絡み・衝突・交換等によって生じる<非日常的エネルギー>を観るもの、見せるもの、というのがわたしの<演劇観>ですが、この定義に照らすと、これは、演劇とはほど遠いものとなりそうですが、さにあらず。せりふは、多くの場合、「台詞」と書きますが、「科白」とも書き、科は「しな」と読み、所作を意味していますから、動き=からだへの意識を欠いたせりふは「科白」になりません。また、せりふは「競る符」が本来の意味だとする説があり、つまり、競りあう符(ことば)をせりふと呼ぶのです。残念ながら(?)、いまこの国に溢れているお芝居から、<身体性>を感じることはほとんどありません。どれもリーディング公演とさほどの違いなし、という寂しい現状を鑑み、<競り符>に特化することで、失なわれた身体性を取り戻し、ありうべき<演劇の原型>を提示することは出来ないだろうか。言うなれば、この度の連続上演のこれが目標・目的だったのではないかと、終わりまであと数日となってやっと気づいた、ああ、唐変木のこのわたし …(泣)。
本日はご来場、まことにありがとうございます。          竹内銃一郎

注)前述の山田氏の殺し文句は、テーマがどうだこうだなんて、そんなダサイことは二の次三の次、そこ(ホークスの映画)にはただ映画の楽しさだけが溢れている、という意味で、殺られた(?)わたしは意図的に誤用しています。念のため。

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