竹内銃一郎のキノG語録

「ラストワルツ 改訂版」のこと。2018.08.17

さすがの酷暑野郎もここにきてひと休み。夜、ベランダに出ると風が涼しい。

「ラストワルツ 改訂版」のデータ化、本日ほぼ完了。ほぼというのは、とりあえず書いたけど的な、未完成なところがまだ3か所ほど残っているからだ。「テアトロ 1999年9月号」に掲載されたものを原本にしているのだが、改めて読み返してみると、単純な校正ミスも含め、いらない台詞、不明瞭なト書き、語句の選択間違い、論理矛盾等々、修正必要箇所の多さに気づき驚く。その大半は、勢い・調子で書かれたせいかと思われるが、しかし、以前にも書いたが、勢い・調子を抑制しすぎるのは考えもので。先に論理矛盾を修正箇所に挙げたが、仮にわれわれの日常会話を速記したものを読めば、おそらくその多くは論理矛盾に満ち満ちているはずだ。戯曲に求められているのは「筋の通った正しい会話・対話」ではない。戯曲は小説と違って、書かれる言葉(=台詞)は、舞台という空間で、俳優という身体を通して<語られる>ことを前提にしていていて、なおかつ、観客の大半は、語られる言葉よりも、語る俳優の身体の方により多くの神経・エネルギーを使っているからだ。論理矛盾の程度にもよるが、そんなものなどスルーして、演者の言動の勢い・調子、あるいは、物語が醸し出す情感の方にその身を傾ける、それが王道を行く観客なのだ。

本作品は、映画「家族の肖像」(L・ヴィスコンティ監督 1974年公開)をもととしている。元・教授のひとり住まいの邸宅に、二階を間借りしたいと家族がやって来る。そして、静寂の日々を送っていた元・教授は、家族たちが持ち込んできた混乱に巻き込まれ …。これが、映画と本作の簡単なストリーであるが、むろん、登場人物個々もストリーの細部もかなり違っている。作品の色調と言ったらいいのか、例のよって例の如く、重厚な映画と違って、本作の方はおふざけ満載。いや、拙作の方も、物語の進行とともに深刻なお話の方へと傾斜していくのだが。「面白い」と拍手を送りたくなる自賛シーン・やりとりが二か所ある。

ひとつは、<家族>のひとりであるトムニイことツトムと、教授宅を家族たちに仲介した不動産屋のパクが、電話するところ。ふたりはそれぞれ別個に電話しているのだが、まるでふたりで会話しているようなしつらえにしたのだ。例えば、ツトムが病院の先生相手に「トモナガくん?」というと、パクは奥さん相手に「俺だよ、俺」ツトム「えっ? ほんとに」パク「誰だよ、シモジョウって」…。こういう不条理な(?)やりとりがかなりの長さで続くのだ。もうひとつは、ツトムが教授を相手に、ハイジャック犯の兄のために、どれだけ辛い思いをしたかを語るシーン。「大変でしたよ、あの頃は。家に警察は来る、マスコミは押しかける、脅迫めいた手紙が山のように届く (中略) 母は自殺する、父は気が狂う。中学生だったぼくはしょうがないから毎日、山に芝狩りに行ったり川に洗濯に行ったり。そしたらある日、川上から大きな桃がどんぶらこっこ、どんぶらこ」…。ここから時間にして数分後。今度は教授が、ツトムと彼の姪のハル(漫画家)に問われるまま、妻がどうして家を出たのかを語る、<お返し>の台詞。「息子が亡くなった後、妻は毎日泣いてばかりいた。(中略) ある日、大学から帰ってくると家の中に彼女の姿は見当たらず、その代わりにとでもいうように、この机の上に見慣れない、古ぼけた木箱が置いてあった。なんだろうと蓋を開けてみると中から白い煙が噴き出して」 …。この種のおふざけは、まあ、わたしの得意とする分野だが、後半、先のハイジャック犯だった、ハルの父でもある男が逃亡先から日本に戻って来ているかも知れないという話になって、家を出ることになるかも知れない<家族>を引き留めるために、苦悩し混乱する教授の論理的かつ非論理的な<合わせ技的台詞>がなかなか …。

これが上演された翌年、この劇をなぞるように、近畿大学に勤務することになる。ああ、人生はなんと<劇的>なんだろう。

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