親善試合 芝山幹郎氏の映画「トイレット」評に得心する。2010.09.03
「親善試合という言葉が浮かんで困った。態度は真面目なのだが、感性の枠が頑なで、深みや危うさに踏み込んでいかない」
これは週刊文春に載っていた、芝山幹郎氏の映画「トイレット」評。あ、そういうことかと得心がいった。この映画の監督荻上直子の作品は、以前に「かもめ食堂」をチラッと見ている。チラッというのは、10分くらいでもう沢山と思い、見るのをやめたからで、そう思ったのはまさに「危うさへの踏み込みがない」と思ったからなのだろう。芝山さんに感謝。
何度も悪い例として挙げて申し訳ないが、「ディア ドクター」へのわたしの苛立ちも同じ理由からだったのだろう。アンゲロプロスの映画にわたしがひかれるのはまさにこの逆で、危うさに果敢に踏み込んでいるからなのだ。
日本映画チャンネルで、「踊る大捜査線」が日本映画に与えた功罪について、いろんなひとが自らの思うところを述べていた。わたしが唯一まっとうだと思ったのは、シナリオライターで、「映画芸術」の編集長の荒井晴彦氏の意見。乱暴に要約すると、「一本の映画との出会いが自分のその後の人生を変えてしまう。そんな幻想さえ持てない奴らが作った映画を、同じ穴のムジナ達が喜んで見てる。茶番だね。」
ホントはもう少しソフティな言葉で、もっと辛辣なことを語っていたのですが。