M・MとJ・Jを並べて「映画と演劇」を考える。2018.11.28
M・Mの「ヒットマンズ・レクイエム」を見る。ウィキには2008年公開とあったから約10年ぶりの再会。ベルギーのおとぎ話の国みたいな街を舞台にした殺し屋たちの映画で、想定以上に面白かったとこれくらいは覚えていたが、ストーリー展開も出演俳優の顔もまったく記憶から消え失せていたことが判明。ショック!
M・Mはこの映画で、芝居では出来ないこと、映画でしか出来ないことをやりたかったのだろうと思った。その具体例を挙げれば、数十メートルはあろう高所から飛び降りて、頭を潰して死ぬシーンとか、「スリー・ビルボード」でも見せた、ピストルの弾丸が対象者の体を撃ちぬいた時にほとばしる大量の血とか。むろん、本当に数十メートルの高さから飛びおりたわけではなく、実際はそこそこの高さから飛び降りるカットと、地面に落ちて頭がグシャグシャになるカットをつなげてそのように見せたはずだから、演劇でだって工夫すればそれに近いことは可能だろう。しかし、演劇とは<寸止めの表現>である。わたしがもっとも演劇的だと考えるのは、シェイクスピアの「リア王」の四幕、自死を願う目の見えないグロスターが、息子の嘘を真に受けて、平地であるにもかかわらず崖から飛び降りる(そのつもりになる)場面である。装置に大金をかけたり、映像を使ってよりダイナミックにリアルに見せようとする志向は、ありうべき演劇とは真逆だとわたしは思う。演劇は俳優を見る・見せるもので、だから例えば、ピストルなどの小道具を使わず、ピストルの形をとった手指を相手に向け、引き金を引く真似をしてバーンと声を出し、それに反応して相手が倒れる、それでそのシーンを本物よりもリアルに見せることが出来れば、それ以上の劇的表現はない。
撮影された演劇ないしシネマは、(中略)素性卑しい演劇だ。ここには演劇の核心をなす肝心要のもの、つまり、生きている俳優たちの物質的な現前、俳優たちに対する観衆の直接的働きかけが欠けている。(R・ブレッソン「シネマトグラフ覚書」より)
「ヒットマンズ~」を「素性卑しい演劇」だとは思わないが、重要な役どころを演じるB・ダリーソンとR・ファインズが、ともにR・S・Cに所属していた元・舞台俳優だと知ると、少なくともブレッソンが志向するシネマトグラフとは遠く離れたところにある、映画=シネマなのだと思う。
確かにM・Mの「スリー・ビルボード」は傑作で興奮もさせられた。繰り返しになるがスリルとサスペンスに満ち満ちたシナリオが素晴らしいのだ。しかしそのことが逆に、前回の最後に口を濁したのは以下のことだが、J・Jの映画「パターソン」の更なる凄みを再確認させてもくれたのだ。一方、これもまた繰り返しになるが、この映画には、対立もなければ葛藤もなければ裏切りも疎外も喧嘩も抵抗も、登場人物たちの行く手を遮る障害もない、まさにこの世にありえない、奇蹟の時空を描いた映画なのだ。いや映画ではなく、奇蹟そのものなのだ。冒頭に書いたように、「ヒットマンズ~」の舞台は<おとぎ話の国みたいな>街だが、それは、主役の若い殺し屋が、ふとしたはずみで関係のない子供を殺してしまい、それを許しがたく思った殺し屋のトップが、若い部下の最後の一週間を<天国のような場所>で過ごさせてやろうという親心から選んだ場所なのだ。トップは掟を犯した若い殺し屋をこの世から葬り去るべくその街に来て、そして …というのがこの映画のラストシーンである。
この世のものとも思えない、天国のような街での死闘とともに幕を閉じる映画と、映画そのものがまるで天国のようなそれと、どっちが凄いかと言えば …、答えは言わずもがなであろう。