ひとに定まったキャラなどないのです。 「BTF」に触れながら 2018.12.14
あの「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を初見。誰でも知っていて一度は見たことがあるような、多くの支持を受けている評判の映画は、自慢じゃないがわたし、ほとんど見ていない。「スター・ウォーズ」や「ハリーポッター」等々も。なぜ? まあ、一種の偏見でしょうな。大衆受けするものに碌なものはない、という。CGを駆使したような映画も好キクナイ。にもかかわらずなぜ「BTF」を見たのかというと、たまたまTVをつけたら放映されていたので、試しに一度見てやろうと、ただそれだけの理由?
冒頭からしばらくは予想通りの退屈さ。話の進みが遅いのなんの。遅いと感じるのは展開力が弱いということで、展開力が弱いというのは、説明・情報開示・伏線はりに終始しているから、お話が前に真っすぐ進まないし、だから、真っすぐ進んでこそ生まれる意外性もないと、こういうことです。登場人物たちの薄っぺらなキャラ設定もそれに輪をかけている。やっと主人公がタイム・スリップして、さあ、これからいよいよかと思ったが依然停滞は続き。こんなものがどうして多くの人の支持を得たのかと、イライラ状態が続いたのだが、ある出来事によってわたし、俄然、物語の先行きが楽しみになり …
前回、ほんのお触り程度に触れた「ミク、~」と「シェイプ~」は、ともに「禁断の愛」を物語の軸にすえた不謹慎な映画だが、意外なことに(?)、この「BTF」も同様のものだったのだ。ご存知の方はご存知のように、30年前へとタイム・スリップした主人公の高校生は、彼の両親に出会う。まだ高校生だった両親は、母側・父の車が父親をはねたことがキッカケとなって結婚に至るのだが、はねられる寸前の父を主人公が助けてしまい、代わりに彼がはねられてそのため、母は後に自分の息子になる主人公に惚れてしまい、彼女は逃げ惑う<将来の息子>に猛烈なアタックを繰り返すのだ。笑いのオブラートに包まれた「禁断の恋」の設定が、物語を牽引するのである。ひとは誰でも、程度の差こそあれ、禁断的行為=悪への欲望があるはずだ。いけないことをしたい、いけないことだからこそしてみたい、という。多くの観客の潜在的な<禁断>への欲望、<不謹慎>への憧れが、この映画をヒット商品とした最大要因だったのではないか、というのがわたしの見立てである。(うん? この映画を見てしまったのも、これまで遠ざけていた領域に一度くらいは足を踏み入れて …という、禁断への欲望のなせる業かも?)
こう書いて、改めて「シェイプ~」と「BTF」は、<アニメ的>という点において、とても似通っていることに気づく。前述した「薄っぺらなキャラ設定」がその端的な例だが、いや、そもそも「キャラ設定」という発想そのものが<薄っぺらい>のだが。これまた上記したように、ひとは誰も、「悪への憧れ」を隠し持っている、自分でも自分を制御しきれない側面を持つ<複雑怪奇>なキャラなのだから。だからこそ、物語には分かりやすい「キャラ設定」を、と考えるのだろうが。しかし、両作ともにアニメでやれば、もっとスッキリ・スピーディーな仕上がりになったはず。非・人間たちの物語ですからね。そうか。だからW・アンダーソンは時々アニメを作るのか。やっぱり違うな、頭のいいヤツは。
うーん。続けて、両作と「ミク、~」は、なにがどう違うのかを書きたいのだが …