分からないから好き! 橋本治の「大江戸歌舞伎はこんなもの」を読む。2019.02.09
前回書いたように、橋本氏の死には相当なショックを受けたが、一昨日あたりから、ようやく落ち着きを取り戻す。一度も会ったことのない彼の死になぜこんなに動揺したのか。エンケンさんが亡くなった時と同様、年齢が近いということも大きいのだろう。また、橋本氏が書くエッセイ(風)のものは、基本、話し言葉(風)だから、読むたびに近しい友人と話しているような錯覚に陥っていて、そのせいかもしれない。
彼の「大江戸歌舞伎はこんなもの」(ちくま文庫)、ようやく読了。去年の暮れに古本屋で見つけ、散歩に出かける時にいつも鞄の中に入れておき、途中で喫茶店等に入って読んでいたのだった。わたしは歌舞伎についてはまったくの無知で、舞台に触れたのも多分二度ほどで、しかも浅草の劇場で見たという以外、演目も出演者の記憶も殆どないのは、あまり面白いと思わなかったからだろう。しかし、この本を読み、意外と思えるほど歌舞伎からの影響を受けていることを知らされた。例えば、こんなくだりに「なるほど」と思ったのだ。
近代文学は、ヒーローとスケベの間をモデラートにつなげようとして説明を駆使しますが、近世戯作は、そんなことをしません。ほとんど唐突に、なんの躊躇もなく分裂した二つをくっつけてしまいます。その方が、ダイナミックでおもしろいからです。(中略)「ドラマチックとはダイナミックなことなり」というのが近世戯作のドラマツルギーですが、この分裂というか断絶というものを、如何にスムースかつ見事につなげてしまえるのかというのが、役者の腕です。「変わり目を見事に演じ分けてこそ」と言いますか。
先に「歌舞伎に影響を受けている」と書いたが、見ていない歌舞伎に影響など受けようはずがなく、おそらく映画の時代劇を経由して教えられたものであろう。この一週間ほどの間に見た、松田定次監督の「清水の次郎長」シリーズ4本の、大胆な飛躍を伴った、ストーリー展開の巧みさ、カットの重ね方の見事さに舌を巻いたのだが、そのこと以上に驚いたのは、それらはわたしが小学生の頃に見ていて、なんとその中の幾つかの場面を鮮明に覚えていたのだ。いずれも、片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大川橋蔵等、歌舞伎出身の俳優たちが物語の中心人物を演じ、それこそ「変わり目を見事に演じ分けて」見せるのだが、とりわけ、同志であったはずの、次郎長を演じる千恵蔵と、国定忠治を演じる右太衛門が、小悪党に騙されて敵対関係になり、刀を構えて至近距離でにらみ合うシーンは、まさに歌舞伎的なるものを凝縮した、圧巻のシーンであった。
歌舞伎と言えば、内田吐夢監督「恋や恋なすな恋」と「浪花の恋の物語」もこの間に見た。前者は竹田出雲の『芦屋道満大内鑑』を、後者は近松の「冥途の飛脚」を原作としていて、ともに途中に舞台そのままのシーンが入るのだが、そんなことよりも、一方で、ドキュメンタリータッチの傑作である「どたんば」「飢餓海峡」を撮りながら、前述2作と同様、歌舞伎ネタの傑作「妖刀物語 花の吉原百人斬り」を撮ってしまうそのことが、橋本治が定義する「歌舞伎」的なのである。
「大江戸歌舞伎は~」のあとがきの中の、以下のくだりには<彼との近しさ>を殊更に感じた。
私が好きな江戸の歌舞伎は、「なんだか分からないもの」です。なんだか分からないくせに、すごく魅力がある。その魅力の根源は、「平気でなんだかよく分らないままにある」ことですーー私はそう思って、そこのところが一番好きです。