竹内銃一郎のキノG語録

「自己承認欲求と平等地獄」  橋本治、再び。2019.05.05

橋本治の「思いつきで世界は進む」(ちくま新書)と、雑誌「ユリイカ」の「総特集 橋本治」を購入。前者は、以前に触れた「父権制の崩壊~」と重なる世相講釈風的内容で、氏独自の視線が感じられず、読みながら幾度かため息をついたが、しかし、「二つの『自由』」という項にあった、「自由という言葉は近代になって西洋から入ってきたfreedomやlibertyの訳語ではなく、そもそも仏教系の言葉として存在していて、現に兼好法師の「徒然草」などにも …」というくだりに「へー」と驚き、最後に置かれた「自己承認欲求と平等地獄」には、「なるほど」と合点した。前回、マスコミと一緒に「令和ワッショイ!」と騒ぐ一般市民はよう分からん、と書いたが、要するに「自己承認欲求」がそうさせるのだ、と理解がいって。以下に挙げるのは、その項の冒頭部。

(2行あってその後に)どうしてそれ(SNSに上げること)が「下らない自己主張」ではなくて「自己承認欲求」なんだ? と考えて、「自己主張ならその受け手はなくともいいが、自己承認欲求だと受け手はいるな」と気がついた。相手がいなくても勝手に出来るのが自己主張だが、自分を認めてくれる相手を必要とするのが自己承認欲求で、そう思うと「なんでそんな図々しいことを考えるんだ?」と思う。世の中って、そんなに人のことを認めてなんかくれないよ。「あ、俺のこと認めてくれる人なんかいないんだ」と気がついたのは、もう三十年以上も前のことだけど …(括弧内は竹内記)

自己承認欲求の根底には、「自分は認められていいはずだ」という考えがあり、その考えは「ひとはみ誰も秀でた才能をたずさえてこの世に生まれる」という神話(?)から生まれ、なぜそんな「神話」が幅をきかせるようになったかと言えば、ここにきて「父権制」の崩壊があまりにも露わになってきたからで、そのことが「平等地獄」を生んだと、こういうことである。父権とは絶大にして絶対の権力を指すのだが、それが「平等」の名のもとに崩壊に至り、それが「ものごとの良し悪しを判定する揺るぎない基準」を喪失させた。しかし、それでひとびとは「自由」になったかと言うと、そうではなくて、「自分の判定基準」が正しいのかどうかを自分自身で判定できず、だからSNSを使って「どうですか、わたし。わたしの考え、センス等々は?」と、見も知らぬ多くの他人様に問いかけるのである。言うまでもなく「より多くの人に認めて貰いたい」から、「より多くの人に認められそうな」情報を発信する。その「より多くの人に認められそう」だという判断はマスコミ及びネットの動向によってなされ、必然的に「多数派になびく」という結果になり、「なにがあっても安部ちゃん政権に揺るぎなし」もこういうところからきている。そう、マスコミ・ネットが、芸能人の不倫や薬物志向、大きな天災・事故、政府・官僚のお粗末ぶり等々をみな同じように平等に扱うのが、平等地獄。もう物事の良し悪し、大小、高低などを計る<冷静な物差し>はこの世からなくなっていて、だから、本当は爪の垢ほども笑えない漫才などに「人気があるから。レジェンドだから」という理由で笑うのだ。ああ、桜見物などにひとが押し寄せるのも、桜を好んでいるからというより、春は桜見物という習慣(=多数派によって長く続いているもの)、あるいは、「桜ははきれいだ」と思うことに誰も異を唱えないと思うからだな、きっと。

皮肉なことに、ユリイカの「橋本治」に収められた大半の文章もまた、「自己承認欲求」を感じさせるもので。だって、橋本氏との交遊を書くのに、氏の人柄等をではなく、「自分はどういう人間か」を書き、評論もまるで学生のレポートみたいに、採点者の反応を期待しつつ書いているようで …。

 

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