竹内銃一郎のキノG語録

運動的なるものを。  稽古日誌③2019.07.08

先週の土曜日。前回の稽古の録画を3度見て稽古に臨む。前回には「まずまずの出来」などと書いたが、繰り返し見るうちに「未だし」の感が募り、ため息も深くなったが、先週2回の稽古を終えると、自らの現在地がほのかにではあるが見えてきた。これまでは覚えた台詞を言うのが精一杯だったが、世阿弥が語るところの<離見の見>的な視線も加わってきたのである。遅まきながら、演出の方にも気を配る余裕が出てきたのだろう。

いつからだろう? TVの野球中継で、ピッチャーの次の配球はこのあたりに、という予想のために、ストライクゾーンを9つに割った図が出るようになったが、演出する場合もあの図を想定する必要がある、今回はふたり芝居だからとりわけ。芝居は、わたしが演じる男1(自称映画監督)の挨拶の練習から始まるのだが、その最終立ち位置を下手後方にし、そこへ上手前方から、松本くん演じる男2(自称助監督)が現れ、その斜めの離れた位置関係から中央前方至近距離での、互いに立ったやりとりに移り、それから男1は中央下手の椅子に座って<針に糸を通す作業>を始め、男2は少し離れたところに立ってそれを見ていて …、という風に。これを野球の投球に即していえば、まず外角高めにストレートを投げ、次に真ん中低めに落ちる球を投げてそれから …、と考えるのである。

これまでも繰り返し書いてきたことだが。均衡的なるものは安定的であり、不均衡なるものは運動的である。芝居に限らず、表現は運動的世界の具現化でなければならない。今回は舞台の大半が数多の椅子によって占められていて、だからすぐに椅子に座りがちになってしまう。しかし、ふたりとも座ってしまうと、均衡的=安定的=非運動的になってしまうから、常にどっちかが座ったらもう一方は座ってはならず、その大原則を基本形にすることで、いまは3度ほど予定している、ふたりが至近距離で座るシーンは、均衡的でありながら運動的の極になれば、と考えているのだが。ついでに書いておこう。最近はどの芝居を見ても、言葉を交わす者同士がやたらと接近して喋るのである。接近するとお互い動けなくなるのが常道で、だからやりとりが非運動的になって、語られる内容とは関係なく、どれもこれも、退屈な時間が延々と続く代物になってしまっている。常に相手の目を見て喋るというのも同様の愚かしき選択だ、もちろん、ケースバイケースではあるが。

このところ一日おきに、「君は海を見たか」の録画を見ている。倉本聰の脚本のうまさにも舌を巻くが、なんといってもスゴイのは、主役を演じる萩原健一。数年前に妻を交通事故で亡くし、小学生のひとり息子は伊藤蘭演じる妹にまかせきりにして、仕事一途の毎日。と、ある日、その息子が残り数か月の病であることが判明し …というお話だが、例によって例の如く、ショーケンの喜怒哀楽の表現の細やかさ艶やかさは並大抵のものでなく、正確無比のコントロール! 通常の俳優ならば怒りに震えるところを苦笑いで流したり、声を張って自己弁護するであろうところも、ささやくように語りかけ。まさに<離見の見>を地でいくような演技力。彼の凄さは、共演する俳優たち、とりわけ伊藤蘭の芝居にも現れ、明らかにショーケンの世界に引き込まれて、彼女もまた上級の演技を見せているのだ。ショーケンの世界に引き込まれているのはカメラマン、ディレクターも同様で、とにかくショーケンを写したショットが多いのだ、撮らずにいられなくなるのだろう。ああ、俳優として、1センチでいいからショーケンの域に近づけたなら …

 

 

一覧