新鮮第一! 稽古日誌④2019.07.14
昨日の土曜、11回目の稽古。その歩みは緩やかではあるが日々、先に先にと進んでいるように思われる。「3歩進んで2歩退がる」といったところであろうか。
「今は昔、~」の初演は1983年。わたしもそして、出演した小田さん、豊川も30代半ばで、現在のわたしから見ればみな息子の年齢であった。その息子の世代の芝居を、親の年代である現在のわたしたちが演じるとしたら、どういう読み替えが可能か。今回はそういう視点から作ってみたいと考えて。物語の流れはもちろん、台詞もほとんど初演時と変わっていないのだが、ふたりの設定を、市民社会から排除され、寄る辺ない日々を送るホームレスとした。彼らが作った映画の完成記念レセプション会場は、長く放置されたままになっていたらしい無人の廃墟である。映画狂のふたりは、映画監督と助監督に扮して、叶えられなかった夢の実現を企てて …。このような読み替えのモデルになっているのは、ベケットの「ゴドーを待ちながら」である。即ち、世界の果てに放置されたふたりが、延々と喋り続けることで、自分たちの生を確認しあうという構造である。こんなことは、最初に上演した時はまったく考えてはいなかった、ひょっとしたら頭の片隅にはあったのかもしれないけれど。
金曜日。遅い昼飯時にNHKBSで「東京流れ者」を久しぶりに見る。途中からではあったが、自分でも驚くほど、どのシーンもどのカットもどの台詞もほぼ完璧に覚えていた。まあ、これまで10数回は見ているのだから当然と言えば当然かもしれないが。なんという面白さだ。話はありきたりだが、話がありきたりだからこそ、画面の隅々にまで視線は届き、だからこそ、映画の醍醐味を満喫できるのだ。すべてのカットが有効に機能していて、だから、ゾクゾク感ワクワク感が途切れることなく最後まで続く。繰り返し流れる、主役を演じる渡哲也が歌う「東京流れ者」、これがいいんですよ。小説や音楽、映画、芝居等々、ジャンルを問わず、何度見ても聴いても読んでも新鮮! というのが優れた作品の条件だが、「東京流れ者」はまさにそれ。半世紀前に作られたとはとても思えない新鮮さをいまなお保持しているのだ。ああ、わたしもあやかりたい。