「役になれ、自分になれ」by中村翫右衛門(三代目) 稽古日誌⑫2019.09.22
録画しておいた「ファミリーヒストリー 中村梅雀」を見る。もう20年以上も前になるかと思われるが、なにかの取材の折、評論家のどなたかから(名前失念)、「竹内さんの芝居に梅雀を使ったら面白いと思うけど」というようなことを言われ、それ以来ずっと彼のことを気にしていたのだが、TVドラマはほとんど見ておらず、それでこの番組を見ようと思ったのだ。真面目そうなのに飄々としている、そんな梅雀氏には好感を持ったのだったが、驚いたのは彼の祖父、中村翫右衛門である。名優と評されているが、わたしが知っているのは、山中貞雄の「河内山相俊」「人情紙風船」に出ている彼のみで、氏もまだ若かったせいもあろうが、名優という評価には違和感を持っていた、しかし。番組の中で紹介された「新門辰五郎」の舞台における彼の演技が凄いのなんの、ほんの20~30秒ほどだったが、こんなド迫力演技を見たのは生まれて初めてではないかと思った。今回のタイトルは、そんな彼が残した言葉である。理解の角度は様々あろうが、わたしは、「役になったら、その衣を片肌脱いで、自らが何者であるかを自覚し、表明せよ」という意と受け取った。
昨日21日、初めて2本を連続で上演する。本番の開幕前に流される、健さん歌うところの「時代遅れの酒場」に聞き入り、いつになく集中力を増す。うまく流れるところが何度かあったものの、またもや幾度か台詞を忘れ、プロンプを入れてもらう。うーん。撮影して貰った動画を見る。いちばん気になったのは、わたしの動き、とりわけ歩きが遅いこと。トロトロしてる。今の今まで気づかなかった。「あと5分」を連発するのである、もっとせかせか動かなくては。そうすればもう少し心地よいリズムの流れが出来るはず。うーん、こんなこと、演出者として向こうに座って見ていれば、とうの昔に気づけていたのに。いや、まだ時間はある。少しづつではあるがゴールに近づきつつあることは実感しているのだから、大丈夫だよ。と誰も言ってくれないから、自らが自らに言う。
「眠レ、~」の方は以前にも書いたように、わたし等よりもずっと先を走っているのだが、ここにきて、物語の中身を語ろうとし過ぎているのだろう、少し重くなってきている。「身近に迫っている自らの死」の実感が深く重くなってきていればこそ、その「重い台詞」のやりとりを軽いものにしたい、軽ければ軽いほど観客の心を捉えられるはずだ。誰もがいつかは死を迎える。泣こうがわめこうが、死から逃れることは出来ない、ならば、「他者の死」はともかく、「自らの死」についてはニコニコと笑って語るのが常道だと、わたしは思うのだ。