竹内銃一郎のキノG語録

感謝の言葉 本番初日を間近に控えて。2019.10.04

ああ、本番初日まであと4日。今日から一週間後の11日には72歳になる、まさかこんな歳まで芝居を続けていようとは! いや、そもそもこんな歳まで生きてること自体が想定外なのだが。小学校の学芸会や高校2年時の予餞会等でも戯曲を書いているが、シナリオ研究所の大和屋ゼミで知り合った小澤さんからの要請に応えて書いた、「闇めくりケンタウル祭」が大人になって初めての戯曲で、上演されたのは1973年。この時点ではまったくと言っていいほど芝居に興味などなく、先の芝居に出演していた沢田情児から「一緒に劇団を」と執拗に(?)誘われて、75年に斜光社を起ち上げたのだが、この時もせいぜい2、3年で足を洗ってと思っていたのだった、それが! あと4年続けると演劇生活50年になるのだ、ひぇー。

言うまでもなく、こんなに長く芝居を続けてこられたのは自分の力だけではない。わたしを芝居の世界に導いてくれた、前述の小澤さん、情児、斜光社から秘法零番館と10数年にわたって共同作業を続けた木場さん、今回公演する「今は昔、栄養映画館」他の作品を上演した「桃の会」のメンバーだった小田さん、豊川さん、幾本かの作品発表の場を与えてくれた東京乾電池の柄本さん、岩松さん、俳優の広岡さん、JIS企画をともに立ち上げた佐野さん、幾本かに出演してくれた小日向さん、乾電池及びJIS企画の制作を担当してくれた大矢さん、舞台美術の手塚さん、島さん、奥村くん、音響の藤田くん、舞台監督の青木さん、さいたま芸術劇場の照明の岩品さん、わたしに演劇活動の再開を促してくれたDRY BONESに所属していた若い諸君たち、そして、幾度かわたしに戯曲発表の場を与えてくれ、今回の「今は昔、~」には俳優として参加してくれた松本くん、等々、協力というより刺激を与えてくれた方々との幸運な出会いがあったからこそ、ここまで続けてこられたのだ。そして、切ないことに亡くなってしまった、情児、手塚さん、島さん、青木さん、更には、すまさん、中川安奈さんのことを思い出すと、意地でもあと4年、50年に届くまで芝居を続けてやろうと、改めて思ってしまう。いや、まあ、斜光社を解散して秘法を始めるまでの1年と、近大に就職して2年ほど経過後の数年、合計5、6年ほど演劇とは縁を切っていたから、正確を期せば、あと10年は続けないと50年に達しないのだけれど。(うん? 近大在籍時の沈黙の数年は、一応、演劇の授業を続けていたのだから …)

斜光社の解散とともに演劇から足を洗おうと思っていたのは、その年、わが師・大和屋さんから大江健三郎の小説「不満足」のシナリオ化の話を頂いていたからだった。もしも映画化が実現されたら、それは師にとって10数年ぶりの監督作品となり、それに協力できるとあらばなにをおいても、と考えたからである。が、結局、大江さんから映画化の許可が下りず、その企画は頓挫し、ならばと高校時から望んでいたシナリオライターになる夢を捨て、再度演劇へとなったのだった。先に、刺激を与えてくれた方々の名を列挙したが、もっとも刺激を与えてくれて、こんな歳までわたしの作家人生を引き延ばしてくれたのは、やっぱり大和屋さん。前述の「闇めくり~」を見た後に師がわたしに語った言葉は今でも忘れられない。曰く、「いまきみの最大の関心事はなにか。それを書かなきゃダメだよ」と。これを金科玉条として書いたのが斜光社の旗揚げ作品「少年巨人」で、巨人軍の監督になって最初の年に最下位となって数多の非難を浴びた長嶋さんと、見るたびに笑い転げたチャンバラトリオへの、「同情と敬意」をモチーフにしたのだった。そして、この作品の確かな手応えからわたしの演劇人生が始まった、と、こういうことである。

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