竹内銃一郎のキノG語録

霧の中の山の頂上2019.11.20

2年間で10キロ減らした体重がここにきて2キロ増。お菓子の食べ過ぎが原因だ。そもそもが甘いもの好きなのでずっと、口にするのは週に一回と制限していたのだが、公演中、毎日のように甘いものの差し入れがあり有難く頂戴していたら、公演終了後もそれが癖になり …

前回触れた前田英樹の「ソクーロフとの対話」10数年ぶりに再読。20箇所ほどに付箋が貼られていて、むろん、それらは重要と思ったからこそ貼られたはずなのだが、なんでこんなところに貼って、なんでここにはないの? と何度も頭をひねる。この10数年でものの見方・考え方が変わったということなのだろう。以下は再読してなるほどと頷き、付箋を貼った箇所のひとつ。

ソクーロフ:(芸術作品においては)語り過ぎないことが大事なのです。そして、形式(フォーム)の感覚というものがなければなりません。しかし、内容が解読されるようなかたちを見せてはいけません。観客に作品の図形を知らせてはいけません。芸術形式や内容を知らせずに、それを感じてもらうことが大切なのです。(中略)霧が立ち込めていますと、その背後にある物体の細かいところは何もわからないですね。中身もわからない。ただ、その輪郭のみが微かにわかる。そのようなことなんです。(中略)おそらく、霧の中の山の頂上というのが芸術的なイメージなのでしょう。

NHKBSで「アナザーストーリーズ 天才激突! 黒澤明VS勝新太郎」を見る。「影武者」(1980年公開)で起きた「勝新太郎降板」を関係者たちの言をもとに検証する、というのがその内容。この<事件>の概ねは知っていたが、勝さんが二役を演じることになっていたこの映画、黒澤が当初予定していた配役は、勝さんの兄・若山富三郎が武田信玄を、勝さんは影武者のみだったことを始めて知った。そして、勝さん降板が決定したのは、彼が撮影に臨んだ最初の日だったことに驚く。また、リハーサルをビデオに撮りたいという勝さんの申し出を、黒澤が受け入れなかったことでかくなる結果になったわけだが、すでに撮影前日のリハーサルの時点で、シナリオに書かれた台詞をそのまま言わずに勝手にあれこれ言い換える勝さんに、黒澤は相当苛立っていたということも今回初めて知った。

「勝さん」と親し気に書くのは、氏とは計2度接触したことがあるからだ。最初は1990年、黒木和雄さんの映画「浪人街」だ。以前にも書いたが、笠原和夫氏が書いたシナリオの修正を黒木さんから依頼された時。二週間ほどであったか京都のホテルで缶詰めになって書いていた時、黒木さんから幾度か「勝さんからこんなアイデアが」という話があって、それ自体は面白いと思ったけれど、結局のところ、勝さん演じるところの人物にスポットが当てられるだけで物語の進行を妨げるものとしか思えず、どれも却下したのだった。もうひとつは、それから5,6年後。セゾン劇場から、勝さんと麿赤児さんで「ゴドーを待ちながら」をやりたいと演出の依頼があり、それは面白そうだと引き受けたのだが、それから話は二転三転して、勝さん主演で彼の出世作となった映画「不知火検校」をやることになり、それで勝さんにご挨拶に伺ったらそんな話はどこへやら、こういう演目もあるがと、タイトルも内容もすっかり忘れてしまったが、その劇に登場する複数の人物をひとりで演じてみせてくれたのだった。それはいま思い出しても実に贅沢な時間で、そう、まさに夢のような時間だったから、そのタイトルも内容もなにも憶えてはいないのだろう。せっかくそんな贅沢な時間をいただいたのに、その仕事を断ってしまったのは、先の「影武者事件>があったからだ、演出とは名ばかりで、実際にはわたしの出番などないだろうと思ったからだった。

黒澤が勝さんの申し出を断ったのは、そもそも映画は一本しか撮れないからで、だから勝さんが黒澤の意に反して、自分の思い通りに演じることを認めるわけにはいかなかったのだ。ソクーロフも、映画作りには常に無限の選択肢があり、その中からたったひとつを選ばなければならない困難・苦痛を語っている。しかし。舞台は望めば毎日異なった作品を提示できる、そこが芝居の面白いところ。あの時にこんな視点があれば、「不知火検校」の演出を引き受けていたはず。まだまだ未熟だったのだな、口惜しい。

先の番組で驚いたことがもうひとつ。「影武者」の撮影が終わった頃だろうか、黒澤がインタヴューに応えて、「あと5本も撮ればわたしは亡くなってもいいかな」などと言っていたのだ。この時、黒澤70歳。因みに、彼はこのあと4本の映画を監督し、88歳で逝去。似たような歳に似たようなことを公言したわたしは、はたして如何に?

心身の贅肉を削ぎ落すために、明日から「月ノ光」の改訂に着手することにする。

 

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