竹内銃一郎のキノG語録

ミルクボーイの漫才の新しさに比べて …2019.12.25

昨日の夜空に驚く。これまで最大で3つだったのが、昨日はナ、なんと10コの星が輝いていたのだ。もしかしてこれは近々起こる天変地異の予兆ではと身震いしたが、今朝の空はからりと晴れ渡っていて、なんだそういうことかと胸をなでおろしたのだが。しかし油断大敵、用心用心。

今年のM1のこと。改めて録画を見たのだが、優勝したミルクボーイはやっぱり相当に面白く、笑った笑った。「それはコーンフレークかどうか」「それは最中かどうか」をめぐる応答だけの4分間、一度も緩むことなく笑いがどんどん加速する。台本が実にうまく出来てる。審査員のひとり、ナイツの塙も言っていたように、「誰がやっても面白いネタ」に出来上がっているのだ、とりわけ、ツッコミ役の「コーンフレーク」や「最中」の定義が、バカバカしいのに知的なセンスがあって言語感覚がハイレベル。また、ボケ・ツッコミの設定が新しいことにも。フツーの多くの漫才は、非常識なボケの言動を世の常識を踏まえてツッコミが否定・批判するのだが、ミルクボーイのボケが語る言葉に非常識はなく、ただ「母親はこう言っている」と伝達をするだけで、つまり、母親という舞台には登場しない<第三者>が、ボケ役の担当者なのだ。こういう漫才はわたしの記憶にない。ふたりの風貌はいかにも古めかしい漫才師風だが、やっていることはきわめて新しい。他の殆どの漫才が、優勝候補の筆頭かと思われた和牛が代表する漫才スタイル、つまり、今回のネタ「不動産屋とお客」のように、それぞれ<役>を演じることで成立させるコント風漫才をご披露している中で、ミルクボーイは前述したように、オーソドックスな、わたしの好きなダイラケやてんやわんや等々の漫才のように、ふたりは他人を演じるのではなく、友人・知人同士でナンセンスな会話のやりとりで笑わせる、古風な漫才スタイルなのである、にもかかわらず<新しい!>と思わせるのだからこれは大したものである。そう言えば、去年のM1覇者である霜降り~も、基本は知り合い同士のナンセンスな会話でネタの大半を成立せているし、わたしが「今年のイチオシ」にしていたかまいたちも同様。かまいたちはコントもやっているから、漫才は漫才のオーソドックス・スタイルで押しているのだろう。

その「かまいたち」。ずいぶん前から彼らのネタに感心していたが、以前は弱かったツッコミの濱家がこの数年の間にグンと腕を上げ、見違えるように面白くなった。最初に見せた「UFJ?」はこれまで何度も見ているが、今回も抜群の出来。ネタの書き手でもあるらしいボケの山内が冒頭でUSJと言うべきところをUFJと言ってしまい、その言い間違いを濱家が指摘すると、山内は「言い間違えたのはお前だろ」と逆襲、「どっちがいい間違いをしたのか」だけで、これまた笑いが笑いを呼ぶ巧妙な台本となっている。ただ、ミルクボーイのネタとは違い、このふたりでやらないと面白くないと思われる、つまり、自分たちにあてて書かれた本なのだ。むろん、だからこそ凄いとも言えるし、彼らのキャラを好まない客には受け入れられなくてもしょうがないとも言える。ワタシ的には、かまいたちの優勝を願っていたのだが、ふたりはおそらくミルクボーイの面白さに圧倒されたのだろう、決勝前のインタヴューの時、かなり緊張した表情をしていた。ナイーブ。だから彼らの漫才が好きなのだ、(わたしに似ている?)

それにしても。漫才はここにきて明らかに進化しているのに、この国の映画や舞台は …。このところ繰り返し書いているように、とにかくどれもこれも台本が薄っぺらいのだ。日本映画の父、牧野省三が語ったように、「1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ」で(1のスジとは台本・シナリオ、2のヌケはカメラ(撮影)、3のドウサは俳優の動さのこと)、つまり、ホンがしょうもなければ、現場でいくら頑張ったところでその作品はドーニモならんのだよ。むろん、問題は書き手だけにあるのではなく、評価する側(観客も含む)にも同様に問題があるのは、売れてる作家や多くの賞の受賞者の顔触れを見れば容易に分かることである。

 

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