活動の記憶③ 清水邦夫さんのこと ここまでの補遺2020.02.21
書きながらずっと気になっていたことがあり、それは「シナ研・ゼミ」の正式名称である。それが今朝わけもなくフッと正解が。「シナリオ研究所・研修科」だったのだ。「研究所」には試験などなく、お金さえ払えば(多分)誰でも入ることが出来たが、「研修科」には作品提出と面接、ふたつの「試験」があった。そして、週2・2時間、毎回講師が変わる「研究所」の講義とは違い、「研修科」はゼミスタイルで、受講生は、10数人(多分)の講師の中から(多分)3~4人を選び、(多分)一ヶ月に二度ほど、選んだ講師の講義に出られると、こういうことになっていた。期間も「研究所」は半年、「研修科」は一年ではなかったか。前回、わたしが選んだ講師の名を3人挙げたが、もうひとりいた、久野浩平さんだ。昨日、図書館で寺山修司に関する本を読んでいたら、この名前があり、それで思い出したのだ。氏はテレ朝のディレクターで、ゼミ生の誰かが書いたシナリオをもとに16ミリカメラで撮影したのだが、氏の指導がまるで小学生相手みたいで …。
「研修科」に行こうと決めた最大の理由は、講師の中に、当時のわたしのベスト1「毛の生えた拳銃」を撮った大和屋さんの名があったからだ。佐々木守は大島渚の「創造社」の一員だったが、水島新司の野球漫画「男どアホウ甲子園」の原作等、娯楽作品も手がけていたひと。秋浜さんは、大学時代に見た、早稲田の「自由舞台」が上演した「袴垂れはどこだ」の面白さが記憶にあり、それを書いたひとと思い込んで、芝居にはほとんど興味はなかったが、ひとりくらい劇作家の講義を、と思ったのだ(あとで「袴垂れ~」は福田善之の作品であることを知る)。講師の中にはもうひとり劇作家がいて、それは清水邦夫さん。わたしは氏の講義の受講者ではなかったが、清水ゼミの「お別れ会」(?)に、秋浜ゼミ大和屋ゼミで一緒だった小澤さんに誘われて参加、行く先がどこだったか記憶にないが、一泊旅行に出かける。食事のあと一杯飲みながらみんなで<おいちょかぶ>を始めたのだが、清水さんはそれをまったくご存じなく、わたしがルールの手ほどき、それですっかり仲良しになり(!)、酒の勢いもあったのだろう、その少し前に見た、清水さん作の俳優座の公演「あなた自身のためのレッスン」についての、かなり辛辣な感想を伝えると、氏は苦笑しながら「自分も同じような感想を持ったけど、それにしても竹内くんは厳しいねえ」とおっしゃって。わたしはこの時、22歳になったばかり。この後、清水さんと直接お会いしたのは、20年後くらいになるのか、わたしがなにかの賞を受賞した時、その授賞式にわざわざ顔を出されて「おめでとう」と言っていただき …。
人生は不思議なものである。氏と初めてお会いした後、木場、和田、さなえ、小出、黒木さん等、次々と清水さん関連のひと達と仕事をすることになるのだ。そうだ、前述の「あなた自身~」には原田芳雄さんが出ていた! もちろん、氏にそのような計らいを頼んだわけでもないのにである。ついでに書いておこう。蜷川幸雄氏が亡くなった時にもこのブログに書いたが、蜷川演出による、清水さんの初期の戯曲「明日そこに花を挿そうよ」は、わたしにとって忘れられないお芝居の一本であることを。(続く)