竹内銃一郎のキノG語録

「劇場閉鎖→演劇の死」と書く野田秀樹への違和2020.03.12

意見書 公演中止で本当に良いのか
コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます。演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄(しんずい)をついた言葉かと思います。 野田秀樹

上記の文章を読んで、頭に浮かんだ言葉がふたつある。ひとつは、ピーター・ブルック(英国・演出家)が自らの著「なにもない空間」で述べた、「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある」で、もうひとつは、唐(十郎)さんの最初の著「腰巻お仙 附・特権的肉体論」にあった文章だが、この本、現在の住まいに引っ越した際、どなたかに差し上げていま手元になく、だから正確ではないが、「劇場がなくても、戯曲がなくても、演出家がいなくても、パリっとした肉体を持つ役者さえいれば芝居は出来る」というものだ。

確かに、わたしどもが選択したような、公演の中止・延期があっちでもこっちでもとさらに1年も続けば、もしかしたら閉鎖せざるをえない劇場が出てくるかもしれない。でも、劇場がなくなったら演劇が死ぬわけはなく、前述の唐さん的思考に寄り添っていえば、もしも劇場がこの世から消えてしまったら、その時にこそ「新しい演劇」が生まれるのではないか。これがわたしの考えである。おそらく、野田くんの「意見」は、東京芸術劇場の芸術監督という公的立場、言うなれば、<現在のこの国の演劇を守らねばならぬ>立場にあるがゆえに発した言葉だろう。そして、わたしの背中にはありがたいことに野田くんが背負っているような荷物はなにもないから、こういう放言も可能なのだろう。いや、残り4本でお芝居にサヨナラしようとしているわたしが発する、大半を退屈極まりない芝居が占めるこの国の現在の演劇界への、これは最後っ屁なのかもしれない。

この国の現在の多くの俳優のように、いたずらな媚態・愛嬌の振りまきやウザい熱演などなくとも、前述のP・ブルックが語っているように、誰かが「なにもない空間」を横切り、その誰かを見ている誰かがいれば、劇場などなくてもそれだけで、演劇は生まれ、演劇として成立し得るのだ。そう、野田くんも書いているように、「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術」なのだ。ツイッターでゴーゴーの非難を浴びたらしいが、これには同感。

 

 

 

 

 

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