「闘魂こめて」斜光社始動! 活動の記憶④2020.04.06
コロナ感染関連であれこれアタフタしたため、「活動の記憶」が一ヶ月余も滞ってしまった。
「活動の記憶②」は、「そしてこの年の暮れに情児から、『一緒に劇団を作って …』という話を持ちかけられて …」で終わっているが、これは間違いだと気づいたので、この訂正から始めよう。
情児に「一緒に劇団を」と誘われたのは、多分、「黄色い銃声」の制作準備前だから、73年~74年だったはず。というのは、「斜光社」を起ち上げた後、情児から「黄色い銃声 降板」の理由を聞いたことを思い出したのだ。この忘れられない<大事件>は、奥さんの体を張った引き留めから起きたものだが、彼女がなぜそんなことをしたかというと、情児は元・俳優であった奥さんに、「竹内と俺たちと、三人で劇団を作ろう」と言っていて、にもかかわらず、楽しみにしていた自分を無視して竹内とふたりで映画作りに参加するなんて「話が違う!」と、情児の映画の衣装を鋏でズタズタに切り裂いたり、包丁を手にして部屋を出ていこうとする情児の行く手を阻むといった、超過激な行動に出たのだ。むろん、これは後々情児から聞かされた話である。
75年の秋頃だったか、「店の客に不動産屋がいて …」という話を情児から聞かされる。彼は新宿・歌舞伎町のスナックで働いていて、そこの馴染みの客から「四谷駅近くに所有地があり、一軒空き家が建ってるけど、そこなら好きに使っていいよ」と言われた、というのだ。多分、情児は彼に、劇場として使えるような場所はないかと、相談していたのだろう。使用料も要らないと言うので、渡りに船とすぐにわたしは台本制作にとりかかる。なにを書こうか。まず頭に浮かんだのは、73年1月に「劇団アステール」で上演した「闇めくり~」を見た大和屋さんに言われた言葉だった。曰く「いまきみが面白いと思っていること、関心を持っていることを書くべきだ」。いま自分の一番の関心事はなにか。監督になった一年目に巨人を最下位にしたというので、長嶋さんに非難ごうごう、そういう心ない世間の声に対する腹立たしさと、その頃のわたしの一番のお気に入りだったチャンバラトリオと、このふたつを絡めてなにか出来ないか、と考えて、書いたのが「少年巨人」である。チャンバラトリオはハリセンを使うが、わたし(等)は野球のバットを使って叩きまくろう。そうするためにはどういう話を? 漫画の「巨人の星」のような、野球狂の父と子の対立を軸にし、父親が息子をバットで …。なぜ? 息子が母親と性的関係にあることを告白し、そんな話を信じられない、信じたくない父親は、それを「嘘です、冗談でした」と言うまで息子を殴り続ける。そして …。その頃、別役さんの最初の戯曲集「マッチ売りの少女」に収められていた「あとがきにかえて」で知って読み始めていた、尾形亀之助の詩と、あれはなんで知ったのか、頁を繰るごとに興奮が増したアルフレッド・ジャリの小説「超男性」を引用し、更には、旧ミスター(父親)が、長嶋さんが引退セレモニーで語った「挨拶」の言葉を呟くように語って「崩れるように倒れる」と、新ミスター(息子)は、「わたしは彼女(母親)を熱愛している!」と言い終わるや否や、彼は身体から炎を噴き上げ、そして爆発する! と、それまで「声はすれども姿は見えず」だった、<まるで少女な>母親がここで初めて登場し、「まあ、なんてきれいな夕焼けだこと! ~」という台詞を皮切りに、尾形の詩をベースにした長台詞を語って、その台詞終わりとともに、巨人軍の応援歌「闘魂こめて」が流れて …
斜光社の始まりについてはまだ書きたいことあり。次回に続く。