竹内銃一郎のキノG語録

「斜光社」旗揚げまでの二転三転 活動の記憶⑤2020.04.07

本日緊急事態宣言発令。えらいことになったなあ。と思いつつ、録画しておいた「プラネットアース 島 生命の小宇宙」を見てビックリ。あれはどこの島だったか。ペンギンが十万単位だか百万単位だかの大群で住んでいて、来る日も来る日も島を襲う10メートル以上はありそうな高波の中に、父親と母親が代わる代わる飛び込んで、子どもたちのために餌を取りに行くのだ。飛び込んだ時に波に跳ね返されて岩に叩きつけられ、お腹の中に餌をたっぷりため込んで戻って来ても波に妨げられて島に上がれず、なんて酷なことがその島のペンギンたちには日常茶飯事なのだ。これを見たら、新型コロナウイルス感染に怯える日々なんて、チョロいもんだよなんて思いに …。

さて、本題。これまであちこちで書いたり喋ったりしているが、わたしはそれほど芝居が好きではない。嫌いではないけれど、好き度合いは、映画を10とするとせいぜい3~5程度だ。なのに何故劇団などを始めたのかと言えば、やっぱり情児や西村(現・木場)などと一緒に過ごす時間が楽しかったからだろう。

「少年巨人」を書き上げたのは75年末か76年の始め。登場人物は、旧ミスター、新ミスター、弟のマシン、それに、彼らの奥さんであり母親であるナボナの4人。情児にあて書きした新ミスター以外の出演者は未定だったが(もしかすると、情児推薦でマシンは西村仁に決めていたかも?)、それよりなにより、演出は誰にするのか、まずそれを決めねばと情児に話すと、西村(克己 現・木場勝己)が以前から演出もしてみたいと言ってるというので、それなら彼にと、頼むことにする。わたしは演出などする気はなかったのだ。何故か。ホンだけ書いていれば、芝居が面白ければホンが面白いからだと思い、詰まらなければ演出がしょうもないからだと、上演された作品の出来不出来には無責任でいられるからだ。但し、これは後々発見(?)したことで、この時点では、早い話、芝居の現場のイロハも知らないわたしに、演出なんて無理だと思っていたからだ。(うん? 子どもの頃に何度かやっているからイロハのイくらいは …?)

当時、西村(克己の方)は情児と同じスナックで働いていた。ウエイター(ホスト?)をしながら、決められた時間になると(ショータイム!)、交替で笑いを交えながら歌など歌い、彼らの招きに応じて時々顔を出していたわたしは、いつも楽しい時間を過ごさせてもらっていた。(わたしはそれなりに酒を飲んでいたはずだが、お金を払ったことはなかった、払ったとしても数百円程度だったはず。ふたりはどういうからくりを?)

情児が西村にホンを渡して「この演出を」と頼んで間もなく、情児から「カッちゃんは、演出ではなく旧ミスター役をやりたいって」という思いもかけなかった話を聞く。この2、3年前に蜷川幸雄演出の「盲導犬」に出演、その時は「あの西村が唐さんの戯曲で準主役級の役を?!」と驚いたものだ、そんな彼がわたしのホンに出たいというのだ、断れるわけがない。桜社解散後、清水さんを中心に作られ、西村も参加した「風屋敷」が、旗揚げ作品「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」の稽古中に問題が諸々生じて、公演中止・劇団(?)解散となって、彼は居場所がない宙ぶらりん状態にあったことも、われわれの新劇団参加の理由となったのだろう。(さっきウィキで調べたら、「風屋敷」解散は75年とあった)。それからまた予想外の事態が発覚。

劇場に予定していた「四谷の空き地」がダメになったというのだ。確か、「使える」と情児に話した<不動産屋>は、会社の社長の息子か何かで、父親に話したらNGを出されたのでは? その話を聞かされてわたしはムカついた。だって「少年巨人」は、空き地の一軒家の室内を舞台とし、観客は、その家の窓から覗き見ることを前提にして書いたものだったのだから。それで、しょうがなく劇場探しにとりかかったのだが、<通常の劇場以外の場所>がその前提にあった。それは多分、テントで公演していた状況劇場の影響もあったのだろうし、さらには、小学校2、3年生の夏(?)、家から徒歩10分くらいの場所に急ごしらえされた舞台で見た、大衆演劇一座に所属していた(と思われる)わたしと同年代の少女が、雨傘を手にして踊る「天竜しぶき笠」(唄 三波春夫)が忘れられない思い出としてあったからだろう。(次回に続く)

 

 

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