活動の記憶㉑ 苦闘の80年代について ①執筆遅々化の理由は?2020.10.21
来年1月上演の「さいごのきゅうか」のチラシが出来上がり、本ブログの「NEWS」に載っています。キノG‐7のフェースブックには数日前から載っていますが。チケット発売は来月の21日より。25歳以下及び60歳以上の方は、前売りのみですが入場料2500円デス。老若男女の方々のご来場、お待ちしております。さて、話は昔に遡り …
前回触れた「かきに赤い花咲く~」のことを殆ど覚えていないのは、単行本の中に入れなかったからだと思われる。他の作品の大半はみな「戯曲集」に収める時に読み直し、書き直したから、まずまず覚えているのだ。それはそれとして。斜光社時は、稽古in前に書きあがってはいなくても、7~8割は出来上がってたはずなのに、いや、秘法の初めのふたつ、「大鴉」「溶ける魚」も同様だったのではなかったか。なのに、次の「戸惑い~」以降、回数を重ねるごとにどんどん書きあがりが遅くなったのは何故か。理由は幾つか考えられる。
その1)執筆の時間激減 斜光社では和田が演出担当でなおかつ、以前にも書いたが、彼から「役者たちが竹ちゃんのこと気にするから」と言われ、稽古場にはおそらく週一程度しか行ってなかったのだが、秘法になってからは演出もわたしが担当、さらには「大鴉」終了後には、6人しかいなかった劇団員が一気に14人!。増えた8人の平均年齢は20代半ば以下だったはずで、当然とはいえ、木場ら3人に比べれば年齢差以上の技量差があり、その差を縮めるため、正確な記憶ではないが、週に5、6日は14時~18時は稽古をしていて(旧メンバーも勿論参加)、彼らを指導していたのはもちろんわたしだったから、戯曲を書くための時間が圧倒的に少なくなったことがあげられよう。当時のわたしは午前中バイトもしていたし。
「大鴉」の初演時にも「劇団員募集」をしたのだが、確か数人の応募者しかおらず、結局男子3人に入ってもらったのだが、そのうちの2人はすぐに辞め、残ったのは小林ひとり。「大鴉再演」チラシの「劇団員募集」に、前回の2、3倍の応募があったのは、単純に観客が3倍ほどに増え、なおかつ、わたしが岸田戯曲賞を受賞したからだろう。昔は、この賞を受賞すると朝日新聞に写真入りで掲載された。岸田戯曲賞の受賞者なんて、おそらく国民の99%は知らない現在とはエラい違いだ。新劇団員は男子4人女子4人。こんなに入ってもらったのは、ひとつには、若者を入れて劇団を一新させたいと思ったからだ。とりわけ、斜光社時代も含めほとんどが「男の芝居」で、わたしは「女性嫌いか?」なんて思われていて、そんな誤解を解くためにも若い女性の入団をと、そう思っていたのはわたしだけではなかったはずだ。それと。当時借りていた稽古場の家賃(幾らだったかは覚えていないが)は当然6人で払っていて、もう少し劇団員が増えればそれぞれの支払額が …という切なる事情もあった。
「~溶ける魚」の公演が終わって、次の「戸惑い~」公演まで4カ月強。新作を書き上げるのに十分な時間があったはずだが、前述したように、毎日稽古があって、中でも、新入団員だけで唐さんの「少女仮面」を稽古場で上演し、当然のことながらその稽古には、時には半日近くの時間もかけていたはずで …。しかし、問題は執筆時間の減少だけではなかった。今にして思うに、木場・小出・森川の斜光社トリオと新人たちの技量の違いの大きさ、これを少なくとも観客諸兄には気づかせず、それどころか、若い人たち新鮮‼ と思わせるためにはどうしたらいいのか。おそらく、それを思い悩んで … (この稿、次回に続く)