過激な悲喜劇のイントロ 映画「歓びのトスカーナ」再見①2020.12.18
昨日、京都で初雪。一昨日のお昼ごろの天気予報では、夜の9時頃から降り出すとなっていたが、12時を過ぎても降らず、朝起きたら、住まいの前のビルの屋上が濡れていて、ああ、降って溶けたのかと思って朝食をとっていたら、パラパラと降り出したが10分ほどで終わり。ああ。来年1月に上演する「さいごのきゅうか」は、降雪地が舞台になっているので宣伝用に、雪景色の中に出演者たちがいる写真を撮っておきたいのだが。
昨日より京都芸術センターで前述の芝居の稽古が始まった。半年ほど前よりずっと気になっていた映画、「歓びのトスカーナ」について早く書かねば。この映画に関するあれこれを考えることが、作品を作り上げるヒント、推進力or後押しになると思うからである。
冒頭のタイトルバックに、車も列車も走っている大きな鉄橋の舗道を、乳母車を押しながら歩く女性とそこに乗っている1~2歳の赤ちゃんの姿が、最初はロングで、次はそれぞれのアップが映し出されるが、母親かと思われる女性の顔は明らかにされない。これらのカットの間に、草や木や花が咲く広々とした庭を持つ建物が捉えられ、そこにいる多くの人々(大半は女性)の中の、ひとりの中年女性の目立ちすぎる言動にスポットがあてられる。アバンタイトルがあらかた終わっってしばらくすると、広々とした庭を持つそこは、心身に障害を抱えるグループホームであることが判り、そして、そこに入って来た車から松葉杖をつきながら歩く女性がおりてきて、彼女が冒頭で我が子とともに鉄橋を歩いていたドナテッラ(以下ドナ)であり、彼女を最初は目で追い、それから歩いて追いかける<目立ちすぎる言動>の女性がベアトリーチェ(以下ベア)であり、この映画は、いうなれば鬱的症状を抱える前者と常に躁状態にある後者、このふたりの「道行き」を軸に作られた<過激な悲喜劇>であることが判る。
グループホームとは、心身になんらかの障害を持つ人々をオープンな生活空間の中で治療にあたるところで、その多くはなんらかの犯罪に関わっていて、ベアは一種の詐欺行為を繰り返しているらしいこと、ドナは幼児虐待の罪に問われているらしいことが物語の半ばあたりで判明するのだが、このことと同時並行的に、ふたりはともに不幸というほかない家庭環境に育ったことも明らかになる。ベアはこのこと、つまり、ふたりは似たような育ちであることを一目見て直感し、ドナを自らのベッドの隣にと<ホーム>の看護師に要求し、ともに外部の農園で働き、そして、近くにやってきたバスに飛び乗って<ホーム>には帰らず、一緒に街に出かけることになる。(以下、次回に)